罪悪感を感じすぎると病気になる

罪悪感というものは

自分を内省するにはうってつけのワードのように

感じますが、

実際は厄介なもので、罪悪感を感じる機会が多いということは

自分を無価値なものだと認識している一つの

指標となります。

 

罪悪感を感じすぎると病気になる、というのは

言い方としてはちょっと雑ですが、

罪悪感自体は人のプラスに働くよりはマイナスに

働くことのほうが多いのです。

 

罪悪感を持つことで、人は反省して

その過ちを二度と繰り返さないようになるのでは?

そのために罪悪感というのは必要なのでは?

ということもありますが、

もちろんそういう意味での罪悪感は必要ですが、

かといってその罪悪感にその個人が

「負けない」ほどの耐性の持ち主かという話になってきます。

 

罪悪感を自分の人生にプラスにできるかというと、

それは個人の問題です。

罪悪感をある意味「自分のプラスになるように

コントロールする」のですから、

自分に対して抑制的で、成熟した自我を持っている人というのは

それが出来るでしょう。

ところが、万人がそういう状態というわけではないですから、

大体は「罪悪感」を持つことでそれ自体が

自分への足枷になったりするわけです。

 

さらにいうと、罪悪感を持つことで何らかの

攻撃から身を守ろうとする人もいます。

心の弱い人は、「悪いことだっていうのは重々承知です。

でも仕方がないんです。自分だって苦しいんです」

という言い訳を自分の中でしながら、

「悪いことだってわかっている。罪悪感だってこれだけもって

自分は苦しんでいる」ということを

さも自分は悪行を犯す権利があり、その悪行も

「致し方ないことなのだ、楽しんでやっているわけではない」

ということにして罪をできるだけ軽くしようとする

行いとして罪悪感を用いることもあります。

 

そういう人にとっては「罪が重すぎて辛い」と思い込むことこそ

必要なわけですから、どんどん罪悪感というものが大きくなって

きます。

 

罪悪感というものが大きく、心が抱えきれなくなると

人は逆に罪悪感を感じないように心を麻痺させます。

 

心の耐性が弱ければちょっとした罪悪感も持てませんし、

心の耐性が強い人でも罪悪感が強すぎれば

すべては抱えきれないものです。

 

そして、「罪悪感を感じすぎる」がゆえに

「もう罪悪感というものを感じさせないようにする」

という精神障害になることもありますし、

 

罪悪感を感じすぎてしまいがんじがらめになってしまい、

精神的に疲弊し精神運動が緩慢になったり

うつ病を発症したりするのです。

 

 

 

自分の思い通りにいかないと気が済まない

自己愛性人格障害者というのは

ストレス耐性がありません。

 

ストレス耐性がないゆえに、

モラハラ思考というもので

ストレスを回避しようとします。

そのストレスには事実をそのまま受け止めること、

責任を負うこと、そして

思い通りにいかない結果を受け止めること、

というのが主要なものとして挙げられます。

 

人は一日のスケジュールさえコントロールできません。

自分のやりたいことはこなせても、

「いつ、なんどき、自分の望んでいるタイミングで

誰誰からメールが入る」

というところはコントロールできません。

 

いくら旅行の計画を、事前に綿密に練って

さあいざ旅行へと言っても

台風の影響でその旅行の計画が頓挫することなど

普通にあり得ることです。

 

飛行機が予定どおりのフライトの時間に

飛ばない、というのは現実世界であるかないかといえば

あります。

そういうあらゆる「思い通りにいかないこと」の

ストレスというのは

自己愛性人格障害者にとって半端ではない強烈な

ストレス、そして「自分に対する攻撃」でもあります。

 

たとえば「いつ、なんどき、誰誰のメールが入る」

というのは

思い通りに、期待どおりにメールしてほしいという

ものであって、

これが自分が日中寝ている時間だったりすると

「なんでこんな時間にメールしてくるんだ、頭おかしいんじゃ

ないのか」

と怒り心頭になったりします。

相手は自己愛性人格障害者にその時間に

寝ているとも知らないのです。

それでも自分の睡眠を妨害された、と怒るのが

自己愛性人格障害者です

(大体そういうときは怒りをどこかで噴出させる

機会を待っていることも多いですが)。

 

しかしたとえば台風で自分が立てていた

旅行の計画が頓挫した、ということでも

自己愛性人格障害者はただの不運だと思えません。

思い通りに事が運ばないと気が済まない・・・

つまり、思い通りにいかないというストレスへの

耐性がないからです。

そして、それも誰かの攻撃のせいであると

思い込もうとします。

 

台風は誰かが起こしているものではないのですが、

天にさえ見放された、悪いことばかり起こる、

こんなにピッタリ悪天候と重なるなんて普通ありえない、

前はこんなことなかったのに(お前と一緒だと

いつもこうなる、という意味)・・・と嘆きますし、

「だいたいこの時期に旅行に行きたいと思ったのは

お前が行きたがったからだ」と

時期を決めたのを他人のせいにすることもあります。

 

 自己愛性人格障害者が「思い通りにいくべき」と

強烈に期待していることに関しては、

思い通り、予想通りにいかないストレスが多大になり

強烈に不機嫌になることがよくあるのです。

ですから上機嫌→強烈な不機嫌、という事態を

よく生みやすい状況ともいえます。

 

このままではだめだ、という発想

ターゲットに選ばれやすい人間というのは、

自分自身への評価として

「このままの自分ではダメだ」と

感じていることが非常に多いです。

 

そしてそれに対する焦燥感から、

どうしようもない不安に襲われたり

怒りを覚えたりしがちです。

 

「どうして自分はこんなにダメなんだろう?」

「どうして自分は効率よく動けないんだろう?」

という、厳しい目を自分に向けています。

 

それはストイックさからではなく、

その厳しさがあればあるほど、

「本来の課題」から目を背けようとしている

気持ちの表れでもあります。

 

ターゲットというのは、

成長したいという気持ちはあるのですが、

その場にいる等身大の自分自身に目を向けることが

出来ません。

 

自分はみっともなくて、ちゃんと動けない。

だから成長しなくては。

もっともっと努力しなくては。と考えがちです。

そしてそれは強迫観念のように、被害者気質の人につきまとう

思考でもあります。

 

それは、自分に対して痛烈な批判をすることで、

自分は自分に対して罰を与えていて、

それ自体がすなわち成長につながるのだ、

という誤解から来ているものでもあります。

 

本来成長につながる課題から目を背けるために、

努力、とか忍耐とか

そういうものに目を向けようとするのです。

「頑張っている姿勢」をとることで、

本来の課題を回避しようとします。

 

なので、自分が本来どうダメなのかはわかっていません。

「とにかく自分はひどい人間で、このままではダメだ」と

思っていても、

そこから抜け出せないのです。

なぜなら、そう強く思うこと自体が

「自分はダメ人間だと自分でちゃんとわかっている」

という開きなおりにも似た状態であり、

そういう開きなおりがないとそれ以外に

どうしていいのか分からない、どういう手段を

とればいいのかわからない状態でもあるからです。

 

そしてそこにつけこんでくるのが

自己愛性人格障害者で、

彼らの「お前はダメ人間だ」という言葉が

余計に響いてしまい、彼らの言うことが

まるですべて真実のように感じてしまうようになります。

 

 

沈黙という攻撃手段

自己愛性人格障害者の

「無視」というのは、受動的な攻撃でもあります。

 

自分が直接的に

何か攻撃となる言葉を相手に発するのではなく、

わざと黙り込み、相手に何かを感じさせる。

 

そういう表現が無視といえます。

「無視している」「沈黙している」という表現であって、

「ただ、黙っているだけ」「別に何も言っていない」

と表現ではないようにもとれるのです。

 

被害者というのはここで考えを巡らせます。

自分はいったい何をしたか?相手は一体何に対して

怒っているのだろうか?

ただ不機嫌なだけであろうか?それとも

やはり自分のせいなのだろうか?

いや、押し黙ることで何かを伝えようとしているのではないか?

もしかして、自分に対してもう言っても無駄だと

思っているのではないか?

 

・・・といった具合です。

無視されることがよくあるといった被害者は、

次にいつどういう攻撃がくるかということを

不安視するようになるでしょう。

 

自己愛性人格障害者は、

重要事を何か話し合わなくてはならないときにこそ

こういう沈黙という手段を使うこともあります。

 

話し合わなくてはならないという場合に

それ自体がストレスになり、

沈黙という手段をとり、相手に何か責任を負わせる。

そしてそれが失敗したら意思決定をした

相手のせいにもできます。

なぜなら、自分は黙っているので意志表明はしていないからです。

 

「無視しないで。いつまでも黙っていないで」

といえば、

「いつでも喋っていろっていうことか」

「自分が真剣に物事を考えていたのに、お前のせいで

考えがめちゃくちゃになった」

と曲解することもあります。

 

沈黙というのは、使い勝手のよい攻撃手段なのです。

 

0か100かの思考

0か100かの思考、というのは

白黒思考と言われたり二極思考とも呼ばれたりします。

 

 

白黒はっきりするのはいい事なのでは?

と思う人も中にはいるでしょう。

それは、曖昧な物事が許せないといった人に多く、

特に「白黒はっきりさせることで優位性を示したい」

特徴がある人にも多いといえます。

 

0か100かの二極思考になる理由

 

なぜ、0か100かという極端な思考になるのか?という

理由については、

自己愛性人格障害者や境界性人格障害といったような

パーソナリティ障害を孕んでいる場合は、

対象に対する理想化・脱価値化という言葉で

説明がつきます。

 

www.jikoaisyougai.com

 

相手を素晴らしい人だと妄信している間はいいとして、

自分の期待にそぐわなかったり、

自己愛性人格障害者を手間取らせるようだと一気に

「裏切られた!」

「本当に無能で無価値だ」

というような“なじり”に転じます。

 

自分に対しても、

「ミスをする自分は価値がない」と思い込みますから

とにかくミスだけは認めませんし、

1日の過ごし方に関しても

「完璧な1日の過ごし方でないと受け入れられない」と

思いますから予定外の事が起こると

途端に機嫌が悪くなります。

 

 

 

 

敵か味方か思考にもつながる

白か黒か?という考え方のクセは、

「自分にとって」白か黒か?

という問いでもあります。

 

 

つまり、相手やモノが、

自分を裏切らない絶対的な存在か?

それとも害にしかならない存在か?

というこれもまた両極端な答えを求めてしまうのですね。

 

幼児的に相手を理想化している間は、

「この人物だけは自分にとって素晴らしい相手だ」

と思いますし、

それが少しでも崩れた場合は一気に

「こいつは、他人を平気で裏切る卑劣な人間だ。

こちらを騙して、自分だけいい思いをしようとしている」

というこき下ろしに繋がっていきます。

 

誰かが会議で、

自分ではなく自分の嫌いな人の意見に対して

賛同した場合は、

「こいつも敵なんだな」とみなすこともあります。

 

 

もし政治家が「自分に賛同・投票しないやつはみな敵だ」

と思っていればそれはそれで問題ですが、

自己愛性人格障害者や境界性人格障害者に限っては

そういう極端な考えをすることも不思議ではありません。

 

 

0か100か思考は病気になりやすい

極端な思考というのは、

意外と自己愛性人格障害者にも

自覚があったりします。

 

本人も「自分は極端だから」

「白か、黒しかない」

という傾向にあるのを自覚していたり、

そういう思考を好むことを認知していたりするのです。

 

 

そして、認識しているにも関わらず

その思考はやめることが出来ません。

その極端さは自覚したとしても、

意識してやめようと思っていたとしても

中々やめられないものです。

 

なぜなら、上述の通り

自己愛性人格障害者自身が

「100点の自分」「そうでない自分は無価値だから認めませんよ」

という観念の中で生きているからです。

 

その観念というのは、

ターゲットや社会などの個人から漠然とした対象に至るまで、

あるいは時間、人生、モノ、環境と

ありとあらゆるものに対して反映されます。

 

 

「白か」「黒か」

「グレーはない。ちょっとでも汚されたら、それは黒だ」

というような考え方しかできず、

 

例えばパートナーに対して勝手に浮気疑惑を立てたとしたら、

「そもそも火のないところに煙は立たないというし、

そういう疑惑を抱かせたお前の落ち度であって、

それは浮気しているのと同じだ」

というような極論に至ります。

 

こういう特性を持てば当然の如く

「しんどい」「完璧な自分のはずなのに

幸せじゃない、むしろ人生が苦痛でたまらない」

というような上を見すぎて

泥沼にはまっているような感覚に陥ります。

 

当然の如く、

対象を「敵か味方か」と考えているということは

自分がいつ陥れられるか疑心暗鬼のまま

暮らしていかなくてはなりませんから

ストレス回避自体がどんどんストレスになっていきます。

 

 

そのためいつのまにか精神疾患を引き起こしていたり、

あるいはその精神疾患によりさらに

極端な思考が際立ったり・・・・という事に

なりがちです。

自己愛性パーソナリティ障害者が否定形うつ病を

引き起こしやすい要因ともいえるでしょう。

 

 

 

防衛機制の「脱価値化」とは

 自己愛性人格障害者や心理学について勉強していると、

「脱価値化」というワードが「理想化」という単語とセットになって

よく出てくるかと思います。

 

そもそも脱価値化、という言葉は

普通に生活しているとなかなか聞きなれない用語です。

脱価値化とは何か?なぜ理想化とセットになって

出てくることが多いのか?

順を追って解説していきます。

 

 

 

防衛機制の「脱価値化」とは

脱価値化とは、「価値をなくす」という

表現通りの意味があります。

 

価値がなくなる、のではなく価値をなくす、という

心理的働きです。

 

これだけだと意味が分かりにくいので、

ちょっとした例をいくつか挙げていきます。

 

「脱価値化」の例

たとえば、自己愛性人格障害者が

仕事で部下がミスをしてイライラしていたとします。

この不愉快さをどうにかおさめてほしい、

おさめるべきだ、完璧におさめられる人間のはずだと

勝手に期待しているのが「理想化(原始的理想化)」です。

 

このとき、自己愛性人格障害者の中では

対象・・・つまりターゲットに対して

「自分の不快さを完璧に取り除いてくれるはずの

人間」という理想化した相手だけを認識していて、

 

「そうでない場合もある(それが出来ないこともある)」

という認識はまるでもっていません。

 

人間は、その人間の事情があり都合もあって、

その人間の考えがあって、

自分にとって都合のいい答えを出してくれる日もあれば

そうでない日もある。

自己愛性人格障害者にとって好きな部分もあれば、

嫌いな部分もある。

 

・・・という、ごくごく普通の事が

自己愛性人格障害者にとっては「認識し難い」ことなのです。

彼ら自身が統制された存在ではないからですね。

「完璧」でない自分というのは「価値のない劣った」自分である

という認識である彼らは、

対象に対しても同じような認識しかできません。

 

ターゲットに対して「お前は素晴らしい人間のはずだ

(だって自分では取り除けないこの不愉快さを

絶対に取り除いてほしいから、

それが出来ないなんて現実を見るのは

それだけで苦痛だ!)」

 

という無意識のもとに、

ターゲットに多大なる期待を寄せます。

 

自己愛性人格障害者のイライラをすっきりキレイに

取り除くこと。

それが出来ないとわかったとき(そもそもイライラは自分自身で

処理しないといけないことなので、そんな魔法のようなことは

出来ないのは当然なのですが)、

彼らはこう思います。

 

「お前は、このイライラをどうにもできない人間なのか」

「お前は、こちらの期待に応えられない人間なのか」

「お前に価値はない」。

 

という思考です。

これが、脱価値化です。

 

 

自己愛性人格障害者と夫婦であった場合、

実際の生活場面でどうなるかというと、

 

「パートナーなのに相手がどう苦しんでいるかも

理解できないのか」

「パートナーの気持ちを汲んで、

労わろうという努力さえしないのか」

「相手が何を望んでいるのかさえ理解しようとしないのか」

「それどころか、こっちが苦しんでいるのを

嘲笑っているんじゃないか」

「じゃあ、この結婚生活自体に価値がないな!」

「なんでこんな結婚をしたんだ!お前のせいだ!」

 

・・・と、阿鼻叫喚をきわめることになるでしょう。

 

 

この場合、

ターゲットが自己愛性人格障害者に対して

気遣いをしたとかどういう言葉かけをしたかというのは

関係ありません。

優しく抱きしめたとか、温かい食事を出したとか、

自己愛性人格障害者の愚痴を聞いたとか

仕事に関するアドバイスを出したとか、

そういう事は彼らにとって意味がないのです。

 

自己愛性人格障害者が望むのは、

「この不愉快さを消せ!」ただ一点のみです。

 

その不愉快さを消せないなら

何をやっても意味がないのです。

 

むしろ、的外れな事をしやがって!

全然空気が読めないやつだな!

というような怒りを誘発するきっかけにしか

ならないでしょう。

 

 

 

 

理想化と脱価値化はなぜセットで出てくるのか

なぜ、脱価値化が理想化とセットにされるかというと

このように

「自分の期待に応えてくれる(理想化)」

「自分の期待に応えない(脱価値化)」

 

というような、極端な見方で

対象を捉える特性が彼らにはあるからです。

このような極端な分け方をする心理を

分裂(スプリッティング)と言います。

 

心理学において

理想化、脱価値化、分裂(スプリッティング)

セットで頻出する用語です。

 

 

ちなみに自己愛性人格障害者でなくとも

この特性は見られることがあります。

 

この記事を書いている私も、

この記事を見ている方も、

幼少期に必ず経験する心理的な発達過程だからです。

 

たとえば2~3歳の子どもにとって、

「母親は完璧に自分を満足させてくれる人」です。

母親にも出来ないことがあること、

都合があることは考えようともせず

オモチャを買ってもらえないと

「自分を満足させてくれるはずの存在なのに」と

泣きわめき、もう大嫌いだと母親を叩く

こともあるでしょう。

 

各々の理由・・・幼少期の虐待や従属的環境に置かれるなど

これらの発達過程が損なわれた場合において、

「理想化」「脱価値化」という対象を二極化した思考のまま

成人になる・・・ということになると

何らかのコミュニケーション障害を引き起こします。

 

人というのは当然、

統合された存在であって「いい自分」も「悪い自分」も

「得意分野」も「不得意分野」も趣向も興味のない分野も

あるからです。

 

なのに「(自分にとって都合のいい)完璧な人間以外認められない」

という自己愛性人格障害者とのコミュニケーションを

健全に・円滑にとれる人間というのは、

まず存在しないでしょう。

 

 

 

逃げられない自分を責めてもどうしようもない

逃げられない自分を恥じる必要はまず、

ありません。

 

「なんで逃げられないのか?」と自問自答することもあるでしょうし、

世間というのは冷たい(というか自然な反応)ですから

「DVを受けているほうにも責任があるのでは?」

「なんで逃げないの?」

という反応が返ってくるのは当然のことです。

 

ところが、逃げられないのもまた、当然のことです。

それなりの素質があるからこそ、ターゲットとして

選ばれたのですから。

 

その素質とは、

自分の被害を軽くみてしまう素質です。

自分の傷を最小限にするように現実を見なくする

能力というのは、モラハラ被害やDV被害を長期化させる

一因となります。

そして、自分自身を過小評価する素質。

自分は「こういう罰を受けて当然の人間なのだ」と

思い込める素質。

 

それらの素質を組み合わせてもっていれば、

間違いなく自己愛性人格障害者や境界性人格障害者からは

逃げ出すことは困難になるでしょう。

 

逃げられないのではなく、

逃げたくないのです。

意識では必死に逃げたい逃げなければと叫んでいても、

無意識では逃げたくないと思っているのが

被害者です。

 

まずは、実際に「自分は逃げたくない」と思っているということを

自覚することが大事です。

逃げるには材料が足りないのかもしれませんし、

安全な場所が確保できないからかもしれませんし、

周りの目が強烈に気になるからかもしれません。

 

逃げられない自分を責めてもどうしようもないのですが、

それでもせめてしまうのも被害者といえるでしょう。

 

被害者が怒るのは当然です。

自己愛性人格障害者との対峙だと、

どうしても被害者が強い怒りを感じる瞬間というのは

多くなってきます。

 

「怒ってもどうしようもない相手なのに怒り狂ってしまう」

というのは、

被害者自身も怒りによって自分の権利を守ろうとしている、

いわゆる正しい怒りの表出といえます。

 

あまり正しい、正しくないの観点で記事を書くと

「何が正しくて、何が間違っているか」という

自己愛性人格障害者が好む論争そのものに

戻ってしまうようで好ましくはないのですが、

 

ここでは「被害者が怒り狂っていても、

自己愛性人格障害者の心理に近づくわけではないから

大丈夫」

「それは正しい怒りです」

ということをお伝えしたいので書いていきます。

 

 

自分を守るための怒り

人が怒る理由には主に4つあって、

 

1.支配したいから

2.優位に立ちたいから

3.自分の権利を守りたいから

4.正義感を発揮したいから

 

という理由が挙げられます。

 

自己愛性人格障害者も、

これらの理由によって

怒りを表出させているということになります。

 

ところで、

被害者がモラハラをされたり

彼らから一方的に非難されたときに、

怒りを覚えたり言い返したりするのは大抵が

 

3.自分の権利を守りたいから

 

ということにつきます。

 

自己愛性人格障害者は他人との境界が曖昧ですから、

被害者の踏み込んではならない領域にまで足を踏み込み、

その場を荒らしていきます。

侮蔑もその一つです。

 

 

 

明らかに言ってはいけない事柄を、

「言ってはいけない(被害者が深く傷つく)であろうから

敢えて言う。

そこを何度も突く」

ということをしがちですから、

一方的に罵られて「怒りはムダ、これに怒りまくれば

自己愛性人格障害者と一緒なのだから」

 

と菩薩のように無心になることは、

嵐が過ぎ去るまで待つには有効ですが、

被害者自身の心は確実に蝕まれ、

ストレスはたまる一方です。

 

自己愛性人格障害者は一気に攻撃性を解放させて

ストレスを発散させますが、

受けた側の被害者はストレス発散の場がありません。

 

それなのにさらに

「怒ることは悪いことだ」と責めてしまうと、

被害者の心身はさらに疲弊してしまいます。

もちろん、自己愛性人格障害者に怒りをぶちまければ

それ以上の報復が待っていますから

合理的ではありません。

 

ですので、被害者はまずは「自分が怒りを覚えるのは

当然のことなのだ」

という認識を持って、

かつ何らかの形でストレスは発散していく

必要があるでしょう。

 

 

恥と死の関係

人は恥をかきすぎると

自分自身を死においやっていくことは

誰もがよく知っていることです。

 

恥という概念は、「もう二度とそういう恥をかかないように

しよう」という心理よりも、

そういう恥をかいた自分に対するストレスというものが

多大になってしまう心理のほうが強く働き、

自分を罰する(傷つける)ような行動をとったり、

衝動的になったり、自己否定につながりがちです。

 

その時にかいた恥によるストレスを軽減させるように、

不快を快によって消し去ろうとするかのように

衝動や欲望に沿ったような動きをしてしまうわけです。

 

恥というのが成長に必ずしも繋がるわけではなく、

むしろ恥というストレスを引き受けられない場合は

その分、衝動的・自己破壊的な働きが強くなってしまいます。

 

そういう考えは恥だとか、お前の行動は非常識で恥ずかしいだとか、

羞恥心を刺激するような育てかたをすれば

子供だけでなく大人も思い通りに動くかもしれませんが、

その分恥をかかされている、恥をかいているという感情自体が

衝動や欲求を大きくさせます。

そうやって子供時代を過ごし大人になると、

恥をかかないようにして生きるというよりは

様々な場面で「恥をかかないかどうか」と考えるようになり

「今、恥をかいている」ということに敏感になってしまい

そのストレスを軽減させるために強烈にルールやモラルから逸脱した

行動をとるようになったり

自分で自分を傷つける行動、すなわちドラッグ依存や、過剰な飲酒、

性に奔放になりすぎる(セックス依存、行きずりの関係ばかりを望む)

など、結果的に寿命を縮めるような行為をするようになります。

 

そして結果的に自分から死に近づいていったりということに

なりますが、

基本的に恥をかかないようにと

ストレス回避に神経を使うということ自体がストレスを感じることよりも

(つまり恥をかくことよりも)健康状況に害を及ぼしますから、

恥と死というのは非常に近い関係にあるうえに、

「恥をできるだけかかないように、失敗しないように」

神経質になること自体が「死」により近いということになります。

 

 

執着=愛ではない

自己愛性人格障害者のターゲットになりやすい人の

タイプとして、

「執着=愛」だと思い込んでいる人が目立ちます。

 

相手に執着するってことは、

それだけ興味があるっていうことでしょう?

という疑問はある程度は合っています。

 

しかし問題は、執着の程度が強ければ強いほど

愛情が強い、という観念を持っていることです。

 

こういう人は束縛が強い人は相手に対する執着も愛情も

強いと考えがちで、

逆に束縛されないと寂しささえ感じてしまうパターンもあります。

 

そしてその延長で暴言や甘え、

自らの権利擁護が発生するのだと考え、

「仕方ないな、これも愛情の裏返しなのかも」と

相手の攻撃性を受け入れてしまいます。

 

やたらと束縛するようなモラハラタイプの

人間ばかりを選ぶ人というのは、

そこまで執着してもらわないと孤独感を感じやすかったり

自分に興味を持ってもらえていないんじゃないかと

虚無感に襲われてしまう人でもあります。

 

執着してくれるくらいの相手でないと物足りないというわけですね。

その相手が愛情をもってくれているかどうかを

「自分への執着、束縛」でしか測れないという結果も招いてしまいます。

 

そういう物差しで人の愛情を測ってしまうと、

確実にその人は同じようなタイプのしつこい相手と

似たような恋愛を繰り返してしまうでしょう。

 

そして執着=愛ではないですから、

そういう執着してくる相手に限って、

外では浮気三昧ということも「なきにしもあらず」です。

 

それでもターゲットの愛情の基準がそこから外れないと、

相手の執着心は愛情からではないのか、

ということをいつまでも確かめようとする

傾向にあります。

 

浮気されようと、モラハラされようと、

相手が暴挙に出ようと、

「愛ゆえに行っていることなのかも」という一点以外の

現実をすべて排除してしまいます。

 

罪悪感を感じない病気

自己愛性人格障害は正確にいうと

病気ではないのですが、

「罪悪感を感じない病気」という表現が

しっくりくる人も多いでしょう。

 

罪悪感を感じないというと、

やはりサイコパスなどという言葉と直結しやすく、

イメージとしてはそういう「無慈悲な人」というような

印象を持たれがちですが、

 

実際の罪悪感がない人というのは、

「罪悪感を感じないということを、

なんとも思っていないように

他人に打ち明ける人」というのと、

「自分は罪悪感にまみれた人間で、

生きている価値がない・・・という

表現をするけれども、実際は

お前がこれだけ罪悪感を感じさせているんだぞという

攻撃であるだけの人」

という例にわかれるでしょう。

 

つまり自己愛性人格障害者というのは、

罪悪感を感じているから苦しんでいるのではなく、

苦しむ格好を見せて他人を「これだけ苦しませているお前」

という攻撃対象にするために、

自分が罪悪感を感じているように「勘違いする」

ともいえます。

 

こういう場合は、他人もまるで

その人がとんでもない罪悪感にとらわれて

他人を批判したり混乱しているかのようにみえて、

実際は全く罪悪感など感じてはいない、

という格好には見えずに、

「あんなに責任感の強そうな、自己犠牲の塊のような人が

罪悪感を感じていないわけがない」というような

錯覚を起こしやすいのです。

 

「成熟した依存」

精神科医でコフートという人物がいます。

コフートの理論で、非常にいいなと思うのは、

「人間は成熟した依存を目指すべき」といった思想です。

 

以前、記事中でアドラー心理学に触れたとき、

やはりどうもアドラー心理学は「依存体質」の人が

読むには急に訪れた別世界の話のようで、

とっつきにくい印象を与えやすいものでもあるなと

感じていました。

自分の課題と他人の課題というものを急に

分けるには、自覚するにはいい勉強になるにしても

実践にはかなり難しいものでもあります。

他人の課題を自分の課題のように感じることが

必要な人間、それを必要として生きてきた人間に

とってはなおさらです。

 

コフート心理学・コフート理論というのは、

「人間は完全な自立を目指すべき」といった考えよりも

「成熟した依存」という状態が人間の最終的に行き着く場所と

考え、

依存心をもっと認めるべきだというものです

(当然ながら自己愛性人格障害者を

肯定するものではありません)。

 

ターゲットや被害者気質の高い人のように、

知らぬ間に共依存の状態に陥ってしまうとか、

そういう人にとって「自立」というのはその言葉自体が

重荷に感じてしまうこともあると思います。

自立が必要というには確かにその通りなのですが、

どこか突き放した、そういう印象を持たれやすい

言葉であると感じるのです。

 

人間、誰もが最初は自己愛的に生きなくては

なりません。そこから発展していくにしても

最初に踏むべき段階が自己愛なのですから

人間はみな自己愛を否定はできません。

そこから自立にもっていくよりは、

理にかなった・社会として受け入れられやすい

「依存心」を発達させていくという考えのほうが

しっくりくると思います。

 

 

そういう意味では、コフートのこの

「成熟した依存」というのは非常に

とっつきやすい言葉でもあります。依存心を否定せず、

なおかつ完全な寄りかかりというものが

いかに「未熟」なのかが良くわかるからです。

 

 

責任転嫁の方法は簡単

責任転嫁というのは、

別に複雑なものではなく、

よくありえることでもあります。

 

たとえば誰かが浮気をしていたとして、

「自分が浮気したのは悪かった。

けど、最近お前が冷たいような気がして、

寂しくて・・・」

というのは、「お前がもっと優しくしてくれていれば

こういうことにはならなかった」

という責任転嫁の表れです。

全部が全部「お前のせいだ」ということは言ってはいませんが、

一部の責任を相手に引き受けてもらおうとする

心理でもあります。

 

ここで、このカップルが夫婦であったり

子供をもうけていたりすると、離婚の話が出てくる

場合があります。

そうすると、

「子供と別れたくはない。もう二度としないから、

離婚だけはしないでくれ」

という場合もあります。

 

これがもっと支配的・脅迫的になってくると、

「お前は子供と自分を引き離すつもりか。

離婚が子供にどういう悪影響を与えるか分かっているのか」

ということになります。

ここだけの言葉を見ていると至極真っ当のようにも

見えますが、

すでにここで「自分は離婚したくないのに、

お前は離婚を選ぶのか」と責任がすり替わっています。

 

「浮気はするが、お前は離婚は選べないぞ」

というものと同義であり、

すなわち「浮気をされた相手の、離婚したいくらいの

精神的ダメージ」というのは

相手に全く見えていないということです。

 

しかし「浮気しても許せということ?」と聞かれると

「そういうことじゃなくて・・・」と否定します。

そして、さっきの「お前が冷たいから・・・」という

言葉に戻ることもありますし、

また別の理由を持ち出すこともあるでしょう。

どういった場合でも「浮気したい」という

気持ちが先で、それ以外の理由はすべて後付けといった場合が

多いです。

理由が多ければ多いほど、環境のせいにしたい気持ちも

同時に表しています。

 

「離婚によって子供にどういう悪影響を及ぼすか

分かっているのか」

というのも、離婚したくないから子供を

持ち出すのと同じです。

なぜなら、「浮気された精神的ダメージを

与えられた親が我慢しながら同居し、養育される悪影響」

というのはまるで見えていないからです。

 

 

そういう場合は、正しくは

「離婚したことによる影響」と

「相手の精神的ダメージをまるで見えていない親と

我慢するだけしかなくなってしまう親に養育される影響」

というものを比較し答えをださなくてはなりません。

 

 

攻撃は愛情の裏返し?

ターゲットというのは、

「攻撃は愛情の裏返しである」と思いがちであり、

それは自分がそう思っておいたほうが都合がいいのと、

 

いわゆる子供が「好きなコにイジワルする」のと

同じような感覚である、その延長であるという

認識が社会の中にあるからです。

 

実際にそういう例があるので、

攻撃が愛情の裏返しであってもおかしくない・・・

と人間は当然のように思うものです。

 

好きな相手に意地悪する。

あるいはとんでもなく嫌いな相手に

素晴らしいと賞賛したり褒めたりしようとする。

これらは防衛機制の反動形成の役割です。

 

そしてこれは、「好きな相手を、好きと認めると

ストレスがかかる」

「嫌いな相手を嫌いと認識すると、

ストレスがかかる」

からこそこういう働きが生まれます。

 

ですので愛情が強ければ強いほど

イジワル(自己愛性人格障害者でいうとモラハラ・攻撃欲)も

強くなるのだというわけではなく、

 

その人の心がそのストレスに耐えられないほど、

そういう働きが強くなってしまい、

ストレス回避のためにそう考えているだけです。

 

そもそも自己愛性人格障害者は

自分が相手を好きであるという感情を

相手が自分を好きであるという感情に置き換えてしまい、

自分が相手を好きになったのだ、という弱みのようなものを

嫌います。振られる可能性なども考えなくしてしまうのです。

 

人を好きになると、ストレスがかかります。

一緒にいたくて、近づきたいのに、

一緒にいれるか・近づけるかはその時の環境や相手に

左右されてしまうからです。

恋愛はすべて思い通りにはなりません。

思い通りにしたいことなのに思い通りにできないというのは

非常にストレスなのです。

 

ところが、それらのストレスを引き受けてしまうと

たちまち心が折れてしまいますから

それらのストレスを「引き受けないようにして」

恋愛するのが自己愛性人格障害者の特徴の一つです。

しかし「そういうストレスを一手に引き受けて、

お前の分の重責までこっちが担っている・・・」と

被害者意識が強くなるのもまた同様に特徴として

あげられます。

「自己愛性パーソナリティ障害 正しい知識と治療法」のレビュー(辛口レビュー有)

 自己愛性パーソナリティ障害について

書かれている書籍は数多くありますが、全部読むのは大変です。

 

それぞれの本で気になった点、辛口レビューも記載しておくので

概要をざっと把握するでもよし、特徴を見て本の購入を検討するも

よし、参考にされてください。

今回は「自己愛性パーソナリティ障害 正しい知識と治療法」です。

  

 kindle版:有

概要

著者は東京にある市橋クリニックという精神科・心療内科クリニックの

院長である市橋秀夫氏。

 

精神科医の中でもおそらく臨床上で

自己愛性人格障害者の治療に関わることの多いお医者さんなのだろうと

思われます(精神科といってもそれぞれ病院・クリニックで関わる精神疾患や

障害というのは変わってきますから、

精神科医であれば臨床上のパーソナリティ障害に確実に詳しく治療もできる、

とは限らないからです)。

そのため内容は非常にわかりやすく書いてあります。

 

「なか見検索」ではマニュアル本のような形で書かれているように

感じますが、全体を見ても構成がそのようになっているだけで

内容まで「ただの形式的なマニュアル本」ではなく

専門用語も分かりやすく説明し、とても丁寧に

まとめられている印象を受けます。

 

精神療法を核とした治療や抗精神薬の効果、治療にかかる期間、大体の金額なども

明記しているページもあります。

ここらへんは精神科医ならではの情報ですね。

 

またどちらかというと、途中からは

自己愛性パーソナリティ障害者本人に

向けて書かれているという印象を受けます。

もちろん、心療内科でまさにパーソナリティ障害と

向き合っている著者ですから

「自己愛性パーソナリティ障害者の症状」

「自分自身の障害の気づき」

「どういう治療がどういうサポートチームの中で

必要になっていくか」

というような流れになるのは自然かとは思います。

 

辛口レビュー

家族や周辺の人に対しても「自己愛性パーソナリティの治療のための

支援」として幾つかの対応策を述べていますが、

とにかくその内容があまり現実的ではありません。

なんなら、このページはなくてもよかった(ないほうがよかった?)。

 

上述のように症状や心の働きについて丁寧に解説し、

「自己愛性パーソナリティ障害」への語りかけを

十分に行っていて障害を持った人達や家族が

「気づき」を得られるような工夫はしているので

「ああ、これってやっぱり自己愛性パーソナリティ障害から来る

症状なんだ」と納得するためのマニュアル、として

使えればそれだけで役割は十分に果たしたのではないかと

思います。

 

ところが最後の方にちょろっと

「周りの人の対応方法の原則」が書いてあって、

量は少なく見えるのに、書いてあることの

難易度が恐ろしく高い。しかも具体性がありません。

 

おそらくその原因は、この著者が「自己愛性パーソナリティ

障害に対する治療者」であるから。

ということに尽きると思います。

ですから書いてあるのは「治療者としての原則」です。

 

ただ、これを一番近くにいる「家族」、特に

おそらく一番悩みの深い「配偶者」に、

おそらく限界が何度も訪れるであろうこれらの原則を

本当に守らせるのか?守れると思っているのか?

ということがまず一点。

 

普通の人でも難しい事を、なぜ被害者となるような

おそらく自身も精神的な弱さを抱えているであろう

人達に出来ると思っているのか?

と考えてしまいます。

 

そしてこの原則の項目に、「自己愛性パーソナリティ障害者」が

自分の障害を自覚している場合には

この原則を守ってください、という前書きが必要だろうに

それが無いこと。

これがないと、自覚もしていないパーソナリティ障害者に対して

こういう対応方法が正しいのだと勘違いして

無理をする被害者が必ず出てきます。

 

つまり、現時点でカウンセリングに通っている

自己愛性パーソナリティ障害者とかその家族であるとか、

そういった人達の「心がけ」として

読む程度であれば問題ないとは思いますが、

途中まで「いいマニュアル本だな」と思っていた分

余計にその「家族(や周りの人間)の対応方法」にかけている

内容の雑さが目につきます。

省いてしまうわけにもいかなかったのでしょうか。