「相談相手」なのか「敵」なのか

ターゲットになる人間というのは、

「辛い」けれども「離れられない」という

共依存に陥っている場合が大半です。

 

ところが、その「離れられない」という

自分に対して無自覚である場合、

離れられないのではなく、自分が望んで

離れないのだというような理由づけを

執拗にすることがあります。

 

自分を苦しめてくる相手から離れられないような

「未熟な人間」「同類」なのではなく、

相手は本当は優しいのだ、

愛し愛されているのにそれがこじれているだけなのだ、

という言い分です。

 

それが顕著に表れるのが

「第三者に相談したとき」です。

 

共依存の自覚がない人というのは、

「自分がこれだけのことをされて辛い」と言うから

第三者が想いを汲んで

「別れなよ」と言うにも関わらず、今度は

まるでそういう相談者を何もわかっていないと

言うかのように

「いや、あの人はこれだけ優しい面があるのだから」

「自分はこうするしかないから」と

パートナーの擁護や自己弁護に移ります。

 

相談された相手は一体、

自分に何を求めているのか、

ただのノロケであるのなら真面目にアドバイスした

自分がバカみたいだ・・・と思うのですが、

ターゲットはターゲットの被害者体質ゆえに

そうなるのは仕方がなく、

相談された相手も相談された以上はなんらかの答えを

出すしかないのでこういう形になるのが当然です。

 

「別れなよ」と言っても

「いや、そういうのはどこの家庭でもあるよ」と言われても

「この人は自分の気持ちをまるで分かっていない」と

なってしまいがちなのは、

 

結局「自分と相手」以外は外界であり自分たちの世界には

入り込めない人達である、と

ターゲットも思い込んでしまう傾向にあることを

表しています。

 

自己愛性人格障害者は別れを選択できない

自己愛性人格障害者というのは

自分が被害者になりきらなくては

生きていけません。

 

なりきらなくては、というのは

本人はそもそも本当の被害者だと

思っているのですが、

モラハラ思考というものの自覚が生まれると

「自分は被害者だと思い込んでいた」

ということを理解できます(理解できるだけであって、

自覚すればさっさとモラハラ思考が治る

わけではないのですが)。

 

どの程度の被害者にならないといけないかというと、

「ターゲットのせいで、人生メチャクチャだ」

というレベルの被害者にまで

下がらなくてはなりません。

 

なので、よくパートナーに対して

「この生活自体が自分を縛っている」

「こんなところにこなければよかった、ストレスしかない」

「パートナーであるはずのお前は、何度言っても

自分の強さを理解してくれない」

「もうこんな生活ごめんだ」

という言葉を投げかけます。

 

なのでパートナーがそんなに辛いなら

別れるしかない、という答えを返すと、

「そういうことじゃない」

「そういうことを言っているんじゃない。

だからお前は短絡的でダメなんだ」

という言葉が返ってくるのが大半です。

 

しかし、パートナーはすでにその時点では

自分でできることはやりつくしているよう

な状態の場合が多いです。

 

どうやったら相手から「お前のせいで人生ボロボロだ」と

言われずに済むか、試行錯誤したうえで、

なお「お前のせいで・・・・結婚が苦しいから・・・・

こんなにひどい仕打ちを・・・」

と言われるのですから、

ではもう離婚しか残されていないのでは?

そんなにひどいパートナーと結婚していること自体が

辛いなら、もう結婚していてもどうしようもないのでは?

と思うのですが、

 

実際には「実際に離婚を余儀なくされるほど辛い」のではなく、

「それだけ辛いということにしなくてはならない」ので

「お前のせいで人生ボロボロだ」という

体をとっているだけ、ということになります。

 

なぜ、自己愛性人格障害者から離れられないのか

自己愛性人格障害者からターゲットが離れられないのは、

ターゲットにとって

自己愛性人格障害者からの「愛」を得るのが

人生最大のテーマといっても過言ではないからです。

 

そして、なぜ愛を得ることが人生最大のテーマなのか?

と問われると、

被害者気質の人からすると「え?愛って誰しもが

欲しいものではないの?何をそんなわかりきったことを

聞いているの?」

というような質問ですが、

確かに愛は誰しもが欲しいものではありますが、

被害者気質の人というのは「愛」を得るためには

手段を択ばない、といったようなところに特徴があります。

 

愛を得るためには、モラハラを受けようとも、

「そのモラハラはきっといつか治るのだ!」

「自分の愛や苦しみがきっとわかってもらえるはずだ!」と

思い込める精神があります。

普通の人には、これがありません(何を以て普通というのか、

というところはなんともいえませんが)。

モラハラをする人は、普通の人からすると

「どんなにキレイ事を言っても、モラハラをするような人」です。

ところがターゲット視点からみると、

「本当は心が繊細で傷つきやすくてかわいらしい一面のある人が、

その特性故に子供っぽい他人を挑発するような言葉で

他人をなじる癖があるだけ」というような人物像になります。

 

そういう視点でみたほうが、

最終的には「愛がある人」という要素は変わらないからです。

 

普通の人は、そこまでして愛を欲しがらないと書きましたが、

なぜならそもそも愛はすでに幼少期に獲得したことのある

人で、そういう人は今現在も愛というものを獲得し続けていると

いえるでしょう。

親という重要人物からです。

 

ところがその親が自分の納得のいくような「愛」を

与えてくれないような人だと、

その子供は大人になっても愛を獲得し続けないと

いけません。

その代理として恋人が存在するのです。

 

自己愛性人格障害者は、その親のように

「愛」を言いながらも自分に対して

とても愛情とは思えないような仕打ちをしてきます。

 

けれども言っていることは正しいように聞こえて、

まるで模範的な親のようです。

とても個性的で、自分があるようにみえます。

 

そういう親の愛を昔獲得できなかったトラウマを、

自己愛性人格障害者を使って、再現しようとしているのです。

 

それが何よりも自分の人生にとって重要ですから、

「モラハラ加害者から逃げる」というのは

「自分の愛を獲得できるチャンスから手を引く」

ということと同義になってしまいます。

 

それゆえに、すんなりと手を離せば

「本当にこれでよかったのか。

自分はとんでもない間違いを犯しているのではないか」

と強烈な不安に駆られるのはある意味当然とも

いえます。

 

「努力」だけでは人生どうにもならない

努力、というのは

青年期まではある程度役に立つ言葉ですが、

あるときから、努力だけではどうにもならないことも

あるということを悟らされる時期がきます。

 

というのも、

「このまま努力をし続けていると

自分のエネルギーが枯渇してしまう」

「努力だけでいくと、損をする」

と気づくからです。

 

それは、努力をした分だけ他人にその手柄を横取りされたり、

努力というものが実らなかったり、

それに見合った報酬が手に入らなかったり・・・

というところが大きいでしょう。

 

しかし、幼少期より、

「努力しているスタンスさえ見せていれば、

誰か重要な人物が自分を認めてくれた」

「そういう態度をとることで、

状況がマシになった」

というようなことを何度も何度も繰り返していると、

人は過剰な努力をしようとします。

 

努力すればその分返ってくるのが当たり前で、

状況がマシになるのが当たり前で、

そして「もっと、もっと」と努力を望まれれば

望まれるほどいくらでも忍耐できるといったような

状況の繰り返しで生きてきた人というのは、

確実に躓きます。

人の身体的エネルギーも精神的エネルギーも有限だからです。

 

心というのは形として表れていないので

非常に分かりにくいですが、

多くは「うつ」などの症状によって

精神的エネルギーが枯渇していることを

外界に表現します。

そうならないと自分の疲れに気が付かない、

周りにサインを出せない人間もいるのです。

 

努力しなさい、という親の言葉が

「自分の期待に見合うように努力しなさい」

「努力しないような子は自分の子供じゃない、

マトモな人間じゃない」といったような意味を持つと、

子供はとたんに努力に対して強迫的になります。

 

努力しなくてはならない、というのが刷り込まれてしまい、

努力以外の方法もあることを知ろうともしません。

 

それは親が潜在的に「子供の苦しむ姿が見たい」

「努力をしろというだけで立派な躾をしているようで

安心する」というような精神安定の材料としか

思っていない場合でも同様です。

 

それは努力をした分、

「親の満足」というような見返りがくることを

前提として努力するのですから、

努力をしても誰かの愛が得られなかったり承認欲求が

満たされないようだと

「努力が足りないのだ」と勘違いして

努力さえあればなんでもできるという思い込みが

個人を疲弊させる原因にもなります。

 

モラハラを受けるような人だと、

夫婦のためと思って努力し続けても

モラハラを受け続けるしか答えが出てきませんから、

そこで初めて「努力というものが報われないことも

あるのだ」と気づく人も多いでしょう。

 

 

現実逃避の心理とは

自己愛性人格障害者ほど

現実逃避の心理が強くなくても、

基本的に人間というのは

現実を「そのまま見る」能力がありません。

 

人は、誰かがひそひそ話をしていると

「自分を見て笑っている」と感じたり、

不愉快な気持ちになることは少なくありません。

 

誰か身近な人が亡くなったとき、

「自分があの時ああしていれば」と

考えることもあるでしょう。

 

現実的に考えて「そう」していたとしても

その誰かが亡くなるといった可能性が全く

減らない場合でも、

人はそのようにして自分の責任というものに

焦点を当てるものです。

 

「あの子なんか大嫌いだ。どっかいっちゃえばいいのに」

と子供が思っていたとして、

その「大嫌い」な相手が不慮の事故で亡くなってしまったら

「あのとき、自分が嫌いだなんて思ったから」と

自分の責任を多少感じるのが人の心というものです。

事故と自分の念は関係ないはずなのに、

自分のせいなのでは?と子供心に罪悪感を感じてしまいます。

 

モラルハラスメントを受けていたところで、

それが「単なる攻撃である、八つ当たりである、責任転嫁である」

と感じることができるかどうか・・・という話になりますが

まず無理でしょう。

人は、なんとなく「ああ、この人がこれだけ憤慨

しているのだから、その通りなのかもしれない」

「なにかそれだけ怒らせるようなことをしたのだ」

という考えを以てつじつま合わせをするのが通常です。

 

そうでないと、自己愛性人格障害者が

そこまで怒りを噴出させている理由に合点がいかないからです。

 

人は曖昧な状況というものを嫌いますから、

なんとかして理由をこじつけようとします。

 

それがいくら些細なことであっても、

「些細なことでも、こだわりが強いこの人にとっては

とてもストレスが溜まることなのだ」と思ってしまえば

なんとなく自分の中で無理やり納得させることができるのです。

 

その例でも、

「現実」というものを見ていません。

ただそれは、現実というものがそのまま受け取ると

非常に厳しいものであるために、

人間は現実を「自分の都合のいい色眼鏡」で見るしか

ありません。

 

その強烈な色眼鏡と言えるのが

モラハラ思考です。

極端な責任回避、極端な自己防衛、

誇大化された自己、弱点と欠陥ばかりの他者と社会。

 

それらは自分の都合のいい面しか見せない反面、

現実は完全に見えていません。

自分が人生を送ってきたなかでいつのまにか

「そういう色眼鏡=モラハラ思考」をつけていることさえ

気が付かない状態なのですから。

 

しかし防衛心理がそうさせるのですから、

ただその防衛心理が過剰にならなくては

生きていけないほど彼らの現実が過酷であったことを

意味します。

 

それは、そばに支配する者や搾取する者が常に存在していた

ということでもあるでしょう。

 

 

現実を自分の都合のいいようにとらえるというのは、

誰もが備えている「厳しい現実から

心を守る盾」です。

 

それは良い側面もあります。

「霊」の存在を信じるというのも一種、そうでしょう。

例えば中国や日本で言うなら「お盆」には

祖先の霊を迎え、送るという側面があります。

 

霊というものを誰も見たことがないのに、

それを丁重に迎え、さらに見送るのです。

 

そもそも霊、というものがいるかいないかすら

現実的には立証できていません。

死んだ者がどうなるかは誰も知らないはずですが、

では身近でとても大切な人が「死んで、そのあとは消滅して

きれいさっぱりいなくなる」と考えるとすると、

残された者たちの心は一体どうなるでしょうか。

 

それよりも、霊など見たことがなくても

「きっとそばでずっと見守ってくれている」

「あの世で見守ってくれている」

と思ったほうがずっと精神的には楽ですし、

人というのはそう思わずにはいられないのです。

 

どう思えばその人が精神的に「苦しまずに済むか」

というところで、

「あと20秒家を出るのが早かったら

あの交通事故に巻き込まれるところだった。

ちょうどカギをかけたかどうか気になって

たまたま確認しにいったのが幸いだった。

きっと亡くなった母親が知らせてくれたのだ」

「人は天国や地獄になんかいかずに、

きっとこの世でずっと見守ってくれて

いるのだと思う」

というような具体的な思想に近づいていくでしょう。

 

こういう例を見てみても、

現実的にはありえないような状況を

人は信じたがる、信じずにはいられない、

そしてそれが人の心の支えとなり助けとなるのです。

 

ですから防衛機制を完全にはがして生きていくなどといった

行為はまず無理です。

しかし、防衛機制が強すぎると防衛機制の操り人形と

なってしまい、

自己愛性人格障害者のようにただの脆さを

防衛機制で補うしかなくなり、

強烈な自己防衛の犠牲としてターゲットが搾取されるしかなく、

彼ら自身もまた自分の人生を歩むことができなくなって

しまいます。

現実逃避が過ぎると、それだけ自分の心は守ることができますが

主体性はなくなり、過剰な自己防衛だけが残ります。

自分を守るためだけに、自分の優位性を保つためだけに

他人を貶め傷つける、他人をこき下ろすしかなくなってしまいます。

 

これは自己愛性人格障害者だけでなく、

ターゲットや被害者気質の人間も知っておかなくては

ならないことです。

 

モラハラ被害者というのは、「モラルハラスメント」という

複雑な虐待行為をはっきりと「虐待である」「そこに愛はない」

と認識できません。

 

どれだけ熾烈なものであっても、どれだけ長い期間であっても、

「そういう現実」を受け止めることができずに、

「なんとか幸せになっている未来」だけが根拠もなく

いつか来ると信じたり、耐えるしかなかったりして

現実を見ようとしない傾向にあるのです。

 

しかし、それは現実を見ないようにしたほうが

「自分(の心)にとって何らかの利益がある」からこそ

そうしているのですから、

逃げられない自分を必要以上に責めるというのも一種、

自分を罰することで、精神的安楽を得ようとするという

心理防衛でしかありません。

 

ターゲットもまた、

モラルハラスメントを受けていくことによって

もともとある心理防衛の強さが遺憾なく

発揮されて、がんじがらめになっていきます。

しかし逃げたいと思っても、自己愛性人格障害者から

離れること自体も、苦しみを伴うからこそ

余計にがんじがらめになるのです。

 

「逃げたい」という気持ちも「逃げられない(逃げたくない)」

という気持ちもどちらもあっておかしくはありません。

それが被害者気質そのものだからです。

逃げたいという気持ちは、これがただのモラハラである、

と自分の中で決定づける「現実」を見る心であり、

 

逃げられないという気持ちは「その現実を見たくない、

愛しているし愛されているけどたまたまこじれて

いるのだと信じたい」という現実を都合よく見たい

心でもあります。

そこには、「ただのモラハラ」と認定するのは

自分の心が危うくなるほど、愛に飢えていて愛を欲しなければ

ならない原因がターゲットの過去にある、という事実があります。

 

被害者というのは「逃げたい」と思うのは

自己愛性人格障害者からみれば「甘え」である、

という評価に対して強烈に苦しみますし、

「逃げられない」と思うのは第三者にとって

「やっぱりDVを受ける側にも甘えがあるんだね」

という評価に対しても強烈に苦しみます。

 

「逃げられない」のはそれだけ、

ターゲットとなる人が愛の再獲得をしなくてはならない

状況にあるだけですから、

「DVを受ける側にも甘えがあるんだね」と言っている人も

ただ自分もそういう側面があるということを見ることができず、

実際そういう場面になると自分も逃げられない、といったことも

往々にしてあるのです。

 

それだけ、小さな現実逃避というものは身近にたくさんある

ということです。

 

 

「自分のせいなのだ」と思わせる

自己愛性人格障害者は、

被害者が「自分のせいなのだ」と感じる

方法を熟知しています。

 

「あなたの責任だよ」と直接的に言わなくても、

ため息をついたり、それと同時に

自己愛性人格障害者が無視をしたり不機嫌な様子を

見せるならば、

被害者は「あ、自分のせいなんだ」と

直観的に理解するでしょう。

 

特に被害者気質の人というのは

「自分のせいかもしれない」となんでもかんでも

思い込む性質がありますから、

別に複数条件がそろっていなくても・・・・

「仕事がうまくいかなくてイラっとしてるだけだよ」と

言われたとしても、

「そういいながら、実は自分に対して

何かイライラしていることがあるのかもしれない」

「自分がもっと安らげるような環境を作ってあげられて

いたら、こうはならなかったかもしれない」

とどんどんと自分を追い詰めていきます。

 

自己愛性人格障害者は、

最初から「こいつのせいだ」と他者に対して

そう思っていますから、

自然と「お前のせいだよ」というような態度をとってきます。

理由は後付けでいいのです。

それこそ仕事が自分のせいでうまくいかなくても、

効率よく進まなかったとしても

「お前があの時こうしなかったから

それがずっと引っかかって、仕事にまで影響している」

「休める環境がない」

「生活費をせびられて、仕事のモチベーションがでない」

「やっぱりこの家は落ち着かない。もっと広い家で過ごせれば

窮屈な気持ちにならなくて済むのに」

・・・と、どんな理屈でも後で付け加えることができます。

 

そういう理屈を持ってこられると、

「ああ、やっぱりこの人の被害妄想ではなくて

現実的に見ても自分の責任なんだな」と

被害者の人は感じてしまうものです。

 

自分の価値は他人しだい

被害者気質の人というのは、

自分の存在価値を相手に委ねて生きています。

相手から認められなければ、

それはすなわち自分には存在価値がないという

ことになります。

 

ですから、相手から指摘をされたりすると

「とんでもない失敗をしでかした」と

とてつもない責任感を感じたり、重圧に押しつぶされそう

なったり、

「なんでこんなこと言われないといけないの。

もう最悪!」と

自己嫌悪に陥ったりそれを過剰に責任転嫁しがちです。

 

それは、些細な指摘を受けたことで

自分の存在価値が揺らぐと考えている証拠です。

 

それが極端な形を見せるのが自己愛性人格障害者です。

そして被害者気質の人もそういう特性が見られる人が

非常に多いです。

 

これは「いいや、他人なんかに自分の価値を

決められるはずがない」という考えを持っているにしろ

いないにしろ、

とにかく「人からちょっと批判されるだけで、

ひどく落ち込む、自分ってなんて欠陥人間なんだろうと

考え込む」とか

「必要としてくれていた人が最近そっけなくなって、

ああ、やっぱり自分って人間として魅力がないし

価値がないから愛してもらえなくなるんだろうな」

とすぐに考えてそこから抜け出せなくなってしまう・・・

というような人はかなり苦しい人生を

送り続けることになるでしょう。

 

そしてそういう苦しい人生から目を背けるために、

また新しく自分を愛してくれそうな人に目を向けたり、

自分に優しくしてくれる人に惚れたり、

ということの繰り返しになりがちです。

 

まるでその個人が自分を評価してくれるために

生きているような人、というような

判断を下してしまうと、

その人はその人自身の人生を生きるのに必死ですから

寂しい思いをするのが常になってしまいます。

 

自分の価値は他人次第である、というような感覚は

自分を苦しめる思考でしかありません。

 

それは、自己愛性人格障害者の課題である

被害者気質の人にも程度があって、

本当は自分が利用されているだけだと

わかっているのに、なかなか精神的に離れられない人から、

まるで他者の課題を自分が遂行するのが当たり前であり

それだけ自分は人のために働くのが好きなのだ!と

自分の中の偽善に気が付かないまま

それが生きがいになってしまっている人から

様々です。

 

前者はコントロールからすり抜けることもできるでしょうが、

まず自分が人の課題を横取りしてしまうのか

気が付いてもいないですしそれが

自分の承認欲求を満たすきっかけになってしまっているから

その中毒、つまり依存からなかなか離れることが

出来ません。

 

そういう人は離れようと思うことすら

しないでしょう。

なぜなら、自己愛性人格障害者のモラハラを

「仕方がないな」と言いつつも、

なんだか他者の責任を押し付けられてもそれを

自分の課題であると勘違いしてせっせとこなし、

それだけが自分の価値になってしまっている。

 

そういう段階まで来ると、

まず、自分が「人の課題を横取りする」ということを

正当化してしまうこと、そしてそれ自体が

自分自身を守っていることにもなりますから、

モラハラで苦しいはずなのに、他人から「なんでまた戻るの?

あんなに辛いって言ってたのに」なんて言われると、

「だって戻らないと、飢え死にさせるわけにはいかないじゃない」

という反論になってしまい、

「相手を救っている自分に価値があり、見捨てるなんて

人として価値がない」という基準になってしまいます。

 

それは、

「自分がどういう行動をとったら

相手から価値があると判断されるか」

という被害者自身の見捨てられ不安に基づいた行動に他なりません。

 

相手がどうやって生きていくかは相手の課題であり、

自己愛性人格障害者が「見捨てられたからもう自分はダメだ」

なんて言っても、それは脅しにすぎません。

見捨てられようとするストレスをどうにかしないといけないのは

自己愛性人格障害者自身です。

 

仮に脅しではなかったとしても、

それは被害者には本来どうしようもないことです。

 

そこで自己愛性人格障害者のために動くのは、

「自分が不要なものと思われないための、

その場しのぎの行動」でしかありません。

 

 

 

異常心理の始まり

心理防衛とは、

人の精神状態の均衡を保つために

必ず必要な、人間すべてが持ち合わせている

システムです。

 

この、

「人間すべてが持ち合わせている」と

いった部分が非常に重要で、

 

モラハラという状況に陥るのは

この心理防衛が過剰に働きすぎた状態といえますが、

もともとは彼らも「普通の」こどもであったのです。

 

その普通の心理防衛から、

発達していく上で過剰な心理防衛を

しなくては自分を守れなくなってしまい、

最終的にはそれが他者との関係性の

関係上「モラハラ」となりうる・・・

ということになります。

 

モラハラというのは過剰な心理防衛の

なれの果てであり、

ただその始まりというのは必ず存在します。

 

それは心の脆弱性ゆえの話であったり、

与えられるストレスがあまりにも長期で、執拗で、

そして強烈なものである・・・ときっかけは様々です。

 

誰もがみな、ストレスから目をそらして生きていて、

それがあまりにも目立つようになって、

いずれ自分自身を支配してしまう。

そういった可能性は大いにあるのです。

 

「誰もがみな、そういった状況に

陥る可能性がある」。

モラハラ加害者になる可能性がある、というと

極端すぎるのですが、

自分自身の本音というものにフタをしたり

その本音がまるでないもののように振舞う、というのは

よくあることです。

 

自分をがんじがらめにする

可能性というのは自分で自分を覆い隠してしまう、

自分自身が何者なのかわからなくなるものです。

自分の信念はいったいどこからきているのか?

それは信念なのか、それとも自分を守るための盾として

使っているのか?

自分の本音はどこにあるのか?

ということは常に問い続けなくてはなりません。

 

自分を覆い隠し自分自身が分からなくなる

可能性というのは、誰もが持っているのです。

 

自己愛性人格障害者のSNS

自己愛性人格障害者というのは

必ずしもSNS上で

自己顕示欲満載の情報を

載せるわけではありません。

 

この人がナルシシスト?と疑問になるくらい

淡々とした文章だけを書き連ねることもあります。

 

被害者意識が強そうな文章をネットに上げているとき

というのは、

被害者になりすませる名分があるときともいえます。

つまり、「ずっとこういう辛い思いをしている」

というような名分さえあれば、

いつまでも被害者のふりをして相手を

攻撃し続けます。

 

被害者のふりをして他人を批判する、

自分はこれだけ他人を批判しても足りないほど

相手は自分に対して酷い仕打ちをしたのだ・・・と

いうかのように執拗に相手を攻撃し続けるのが

特徴です。

 

ノスタルジーにひたることが

自己愛を満たすために必要な作業なのであれば、

いつまでもノスタルジーにひたるような

文章を書き続けられます。

 

自分の顔を何度でもネット上に上げる、

というのも自己愛性人格障害者ならば

確実にみられる現象というわけでもありません。

 

ナルシシストだと誤解を受けやすい状況ですが、

そういう人間が自己愛性人格障害者であるといったような

確定要素にはなりません。

 

顔つきだけでサイコパスが判断できないのと同じで、

SNS上の情報だけでは、

なかなか自己愛性人格障害者であると

見破ることはできないのです。

 

暴力を「躾」と称する理由

暴力は躾とは異なるものですが、

では、どこからが躾でどこからが暴力なのか?

ということは誰も明確にすることはできません。

 

つまり、その暴力が果たして躾であるのか、

はたまた虐待であるのかは

誰も線引きできないということでもあり、

しかし暴力と躾は違うよね、とか

躾において暴力が必要になることもあるよね、とか

個々の判断において決められているのが実情です。

 

そしてメディアでも取り上げられていますが日本政府は

児童虐待防止法の改正案として「体罰の禁止」を掲げ、

来年4月の施行に向けて動いています。

 

ところで、民法には親権者による懲戒権(ちょうかいけん)

というのが認められています。

「親は監護及び教育に必要な範囲内で、

子を懲戒することができる」といったものなのですが、

民法では具体的に「どういった例」が懲戒に当たるのかを

示していません。

 

しかし新版注釈民法には、「懲戒のためには、

しかる・なぐる・ひねる・しばる・押し入れに入れる・

蔵に入れる・禁食せしめるなど適宜の手段を用いて

よいであろう」と、

なかなか物騒な具体例が書かれています。

明治時代なら普通にあり得そうですが、今はこんなことが

露呈すれば大騒ぎになりそうですね。

 

親にとっての子に対する懲戒権がなくなれば、

躾というものが成り立たないのでは?

といったような声も上がってきそうですが、

懲戒権が明記されていようと削除されていようと、

「体罰の禁止」が児童虐待防止法の改正案として

成立しようとしまいと、

虐待というものもなくなりません。

 

躾と称して暴力を行うのは、行っている者にとって

「暴力」というものが必要不可欠であり、

なおかつそれをどういう風に

「躾と称するか」は、どのような形でもとれるからです。

 

躾かどうかなど暴力を振るう側にとってはどうでもいいと

思われがちですが(実際はそうなのですが)、

自分のやっていることを正当化しなくてはすまないほどの

精神的強さがなかったり、相手がミスするとキレだすような

人だと、

いちいち「躾だ」と思い込むこと、またその理由を

決定的に明らかにしないと気がすみません。

 

虐待をする人間ほど「躾であった」ということを

主張します。それは、嘘でそういっているのではなく

本当にそう思い込んでいることも非常に多くあるのです。

 

 

優しい「けど」モラハラ加害者?

モラハラ加害者に関して表現をするときに、

うちの人は優しい「のに」モラハラっぽい言動をするとか、

優しい「けど」自己愛性人格障害者の特徴に当てはまるとか、

そういう文脈になりがちです。

 

けれども、その特徴があるからこそ、つまり

相手に「優しい」と感じさせる要素があるからこそ、

モラハラ加害者であるともいえます。

感じさせる要素があるというよりは、

被害者に自分は優しくて気配りができる人間であると

刷り込むことが得意だからです。

 

特に、甘い言葉を投げかけることも、

優しく接することも可能です。

なぜなら、そうすることがコントロールすることに

かなり大きく役立つということを

自己愛性人格障害者が分かりきっているからで、

そうする必要がなくても相手が思い通りになりそうなら、

たちまちその優しさというのは

どんどん無くなっていきます。

 

けれども急速になくなるわけではないのが

自己愛性人格障害者、つまりモラハラ加害者の特徴です。

 

ですから被害者やターゲットは

普段は優しい「のに」なんであんなに豹変するんだろう?

いつもは優しい「けど」途端にキレ出すことがある、というのは

ばっちり印象操作を受けている証拠で、

特にキレだす人であるからこそ余計に優しさがギャップとして

映りこむという特徴も持ち合わせています。

 

 

過干渉は共感性の欠如

過干渉という言葉がありますが、

過干渉は立派な虐待に当たります。

 

ですが、過干渉の多くはその問題点が

露見されにくいものです。なぜなら、

過干渉をする者の多くが巧妙に

「これは愛から行っているものである」と

主張するからです。

 

たとえば、ここでいえばモラハラなどは

愛を理由に行うものだと自己愛性人格障害者が

主張すると述べることが多いですが、

実際にモラハラを受けたことがない人からすると

「モラハラが愛?」

「それを愛だと感じてしまうほうにも

問題があるのではないか?」と感じることでしょう。

 

しかし、過干渉だと「いや、いろいろと口出しするのは

君の親御さんが君のことを心配しているからだよ。

愛情の表れだよ」

なんて台詞はものすごくしっくりくることでしょう。

 

ところが、過干渉というのは

「口出しをしてくる」ことではありません。

口出しをすることによって、

親が何かを得ようとする働きになります。

 

なので、口出しをするだけにとどまらず、

子供を何かしら自分の思い通りにしたいという

意識が目立ちます。

 

子供を通して自分の願いを叶えたい場合は、

子供の服装や髪型を着せ替え人形のように

勝手にコロコロと変えたり、

自分のほうが正しく、強く、必要とされる人間なのだと

思いたい場合には

自分の子供を「だらしがない」「自分がいないと

生きていけない子」に仕立て上げようとします。

 

どちらも、

「愛があるから、この子が似合うような容姿にしてあげたいだけ」

「愛があるから、世話をしてあげたいだけ」

と言い換えることができますが、

そもそもここには

「こどもの意志」というのは介在しません。

あくまで、親の欲求を叶えるためだけのアイテムでしかなく、

着せ替えられたこどもがどう思ったか、

それを本当に似合うと思ったか、

は親にとってあまり関係がなく、

「親が選んだほうが似合うにきまっている」

という決めつけしか存在しません。

 

親にいろいろと世話をされる子供が「自分でやりたい」という

気持ちを持つことに対しても、

「自分でやったってうまくいかないじゃない、いつも」

と自分でやりたい気持ちを無視したうえに、

どうせそれは失敗するものだ、というような

決めつけまでも行って、子供の意志や尊厳はそっちのけに

してしまいます。

暴力はしつけではない、と理解できない

暴力をしつけだと思っている人に、

「暴力はただの暴力であって、

しつけではありませんよ」と

ただ言葉で何度教え込んでも

意味はありません。

 

暴力をしつけだと思っている人は、

それを信念として持ち合わせていたりするし、

そもそも暴力というものをふるっていなければ

生きていけない人です。

 

暴力を振るっていなければ生きていけない・・・というのは、

そういうストレスの解消方法をとらなくては、

精神的なストレスが大きくなってしまうという意味です。

 

つまり、暴力という手段をとらないと

耐えられないという意味でもあります。

 

ですから、自分が耐えるよりも先に

ストレス発散のために「しつけ」と称して

暴力を振るいます。

 

ですから、言葉面で説得してもどうしようもありません。

100回、200回「暴力はしつけではない」と

言い続けても、

倫理の授業をし直したとしても、

その人達には「暴力」というストレスの発散方法が

必要だからこそ行うのであって、

それを無くすということはできないのです。

 

それを無くすには、

その人が失った正常な精神発達の段階を

また取り戻すしかありませんが、

まずそんなことは不可能に近いです。

そもそも本人が「治したい」という風に思わなくては

治療は成り立ちませんし、

 

治したいと思うよりもさっさと

子供に対して暴力を振るって「しつけである」と

思い込んでいたほうが明らかに

楽ですから。

 

自己愛性人格障害者がターゲットに望むこと

自己愛性人格障害者が

ターゲットに望むことは、

「ターゲットであり続けること」です。

 

モラハラをやめさせてくれるように

助けてくれること、ではありません。

 

モラハラというのは、

自己愛性人格障害者が心の苦痛をやわらげるために行う

非常に重要なシステムです。

 

ですから基本的に自己愛性人格障害者は

モラハラをやめられません。

 

モラハラをやめるときというのは、

モラハラをしたほうが将来的、精神的に損をする

と考えたときと言えますが、

そういう自覚を得ることはまずないでしょう。

 

自己愛性人格障害者はだいたいが

その病理性を知ることがない自己愛性人格障害者のまま

一生を終えることになります。

 

現実を歪めてとらえたとしても

歪めるには原因があります。

現実を歪めて捉えているからおかしくなるのではなく

現実を歪める必要があるから歪めるのです。

 

つまり誰かが悪者に見える必要があるから

悪者に仕立て上げ、

自分は正義だと信じたいから

自分が正義である根拠を述べようとします。

 

ターゲットは、その犠牲者であってほしいし

そうなければならないのです。

 

自己愛性人格障害者は

「自分らしさ」を出してくるようなターゲットは

必要ありませんし

ターゲットの想いも必要ありません。

ターゲットの言い分を聞いているだけの

余裕などないのです。

 

ターゲットがただ、ターゲットであり続けることが

何よりも重要なのです。