自己愛性人格障害者と恋愛

自己愛性人格障害者というのは

「惚れっぽい」一面があります。

それは当然ながら、人に依存する傾向があるために、

自分にとって同化しやすいような人物がいると、

それを恋愛であると誤認するからともいえます。

 

誰かを好きになりすぎて依存するわけではありません。

一般的な考えかたからいうと、「愛しすぎて」依存する、

特定の個人に期待するということは

あるかもしれませんが、

自己愛性人格障害者においては「依存する」ほうが先ですから、

依存対象を求めて、それにしっくり合うような人物を

「好きだと思い込む」というような形になります。

 

彼らの場合は恋愛だけでなく、他の思想や信念も

同じことがいえます。

何かに対してこだわりがあるから信念を持つのではなく、

そのほうが都合がいいから・あるいはその思想に

依存していたいから何か特別な理由づけをするのです。

 

そして、その恋愛感情がいつのまにか激化していき、

特定の個人を支配するための一種の取引材料になって

しまいます。

それはもちろんそうですね、

依存というのは自分ではない他の何かに何かの効果を

期待することですから、

「いつのまにか」その依存心というものはどんどん高まっていく

ようにみえます。

実際には依存心がもともとその自己愛性人格障害者の

中にあって、それを全面に出しても

特に問題はないと判断して強烈な依存心を露見させてしまう

だけなのですが。

 

取引の材料にするということはすなわち、

「愛しているのだからこうしている」

「こうしなければ愛さない、そんなこともできない人間は

自分には必要ない」

という、自分の愛を相手をコントロールするための材料に

するという意味です。

 

何度もここでも取り上げているように、

ターゲットという存在が「愛に飢えている」ような

人物だと、この取引材料というものは

自己愛性人格障害者にとって非常に有効な武器となります。

 

自己愛性人格障害者の「モラルハラスメント」という最大の盾であり

矛でもある手段も、

ターゲットがモラルというものにうるさいような人、

自分の良識や道徳心というものに敏感な人であればあるほど

「それは常識として変だよ」

「支えあわないと。自分はいつもこうしているのに」と言われてしまうと

確かにそうだな、と変に納得させられてしまいます。

 

 

そして自己愛性人格障害者は自分から

こう話すこともあるでしょう。

 

「こじらせているだけ」

「甘えているだけ」

「ただ、愛しているから嫉妬しただけ」

という言い分ですが、どれも本当ではありません。

 

つまりモラルハラスメントというものは

ただのいじめであるのですが、

そのいじめを何とかして正当化しようとするならば、

「愛がこじれているだけ」

「好きな子にはいじめるという反動形成の話」

と言ったほうが他人には通用しやすいのです。

 

当然ながら、自分と交際していて、どうやら

かなり依存しているはずの目の前にいる異性が

どうやら本当は自分の事を憎んでいるだけのようだ、

なんてことは誰も理解できないししたがらないでしょう。

 

身体・心理的虐待やいじめというものはいつでも、

被害を受けている側が「自分のせいなのかも」

「相手には、こうせざるを得ない事情があるのかも」と

思わされるものです。

しかもそういう相手が交際相手や配偶者であれば、

「ただ憎んでいる相手と結婚するはずがない」

と思うのが当たり前です。

 

ところが自己愛性人格障害者がモラハラを自覚したとき、

自分が抱いていた感情は恋愛とか愛ではなかった、

ということにようやく気が付きます。

 

ターゲットというのは

自分の自己愛を満たすために非常に便利な存在であった、

そして自分の攻撃性を発散させるのに非常に

重要な役割を果たしていた、ただそれだけです。

 

また自己愛性人格障害者は、ターゲットに対して

「結婚してやった」というような考えでいることが

多いですが、それは「自分がこれだけ偉大な人物なのに

あなたのような小物と・・・」という意味合いよりは、

結婚という責任・ストレスに対する回避の意味合いが強く、

「結婚するタイミング」

「結婚してから起こる数々の環境の変化」

「結婚式場に関する要件」

「結婚のときの義両親の対応」

に関する、すべての責任やストレスに耐えなくてはならなくなった

被害者である、というような考えでいることがもとで

「こういうものに耐えながら結婚してやった、

今も耐えているのだ」というアピールでもあります。

 

当然ですがそれらのストレスや責任は

夫婦で引き受けていかないといけないものであり、

そもそもターゲット自身も

それらのストレスは引き受けているはずなのですが、

「自分だけがこういうストレスと責任に耐えている」

という態度をとります。

 

それは自分だけが被害者だという思い込みをして

しまっているからではなく、逆に

「お前がそんなにのんきなのは、責任を何も感じていないからだ」

「全然ストレスを受けていないからだ」

というような考えのまま固まってしまっているパターンが

多いでしょう。

その「お前は全然ストレスを感じていない」という決めつけは、

確固たるものです。

むしろ、自己愛性人格障害者のように苦しんでいる様を見せていない

ターゲットは「自分を差し置いて楽をしようとしている極悪人」に

見えるときもあるでしょう。

 

自己愛性人格障害者の中で、

「ターゲットもストレスを受けているはずだ」というような

考えに及ぶことはまずありません。

 

そして「恋愛」「結婚」の何がそんなにストレスなのか、

ターゲットにはまずわかりません。

そんなに苦痛でたまらないなら、

結婚したのが間違いだった、というなら別れればいいのに、

という答えにもNOを突き付けるのが自己愛性人格障害者

ですから、

「結婚生活は地獄のようだと話す配偶者が、それでも離婚はしてくれず、

私を非難ばかりする」というようなループに陥ります。

 

正確に言うと「あなたを非難するために結婚生活は地獄だと

罵り続けることが重要なのでまず離婚はしないだろう」

という答えになるのですが、

自己愛性人格障害者というのはそういう考えは自覚できないので、

彼ら自身もまたループに陥ることになります。

 

 

 

 

自己愛性人格障害者にとって

最大のテーマというのはストレス回避です。

ストレス回避のためのわざが「モラルハラスメント」とも

言えるでしょう。

 

そしてストレス回避を手伝わせるために

それに奔走してくれそうなターゲットを選びます。

ターゲットも、この人にストレスを与えると悪いことしか

起こらない、というような条件反射のもとで

必死にストレス回避を手伝いますがそれは自然の摂理上

すべては叶いません。

そして、ストレス回避の一つには「攻撃」というのも

加わりますから、どうしたって自己愛性人格障害者は

誰かを無性に攻撃したい、攻撃しなくてはならない

という認識は変わることはないのです。

 

特に、幼いころから親に怨みを持って、何かしら

仕返ししてやりたい、見返してやりたいと強く願い、それを

心の中に留まらせている以上は、

その対象となるのは一番身近なターゲットということになります。

ターゲットはその恨みの対象である彼らの親の身代わりに

利用されます。

 

自己愛性人格障害者にとってターゲットという存在は

一個の存在ではなく、

自分の鏡であり恨みを晴らしたい親の身代わり、

みっともない社会を具現化したような存在・・・・と

あらゆる側面を孕んでいます。

 

そしてストレス回避というものはあらゆる場面で

でてきますから、

自己愛性人格障害者の辞書に「失恋」というものは

存在しません。

失恋自体がストレスなので、失恋したという事実は

失くす必要があります。

「自己愛性人格障害者が誰かに恋をしたけれども、

相手の気持ちを得られることができずに振られた」

というような事実はなかったことにします。

 

この「失恋」のストレス回避こそが

ストーカーという心理を生みます。

失恋に耐えられない人はストーカーになりえますが、

精神的に弱い人がストーカーになりやすいのはこのためです。

 

つまりストレス回避のクセが付いてしまっているような人は、

失恋の場面でもストレス回避を起こしやすい、

つまり失恋というものを回避しようとする心が

「好きで、付き合いたかったのにかなわなかった」

という事実を捻じ曲げ、

「そうだ、自分は相手を好きになったわけではなくて

相手がそういう風に仕向けた、唆された・騙されたのだ」

という自分に都合のいい思い込みを作り出します。

 

その思い込みが、

「自分を騙しやがって」というような怒りにつながり、

ストーキングにつながっていくということになります。

 

別のパターンだと

「そうだ、相手も自分を好きなのに、何か事情があって

応えられないのだ。なら応えてくれるまで自分が

押さなくては」という思い込みになり、

いつまで経ってもアプローチをやめない、

ということにもなります。

 

これが元配偶者である場合も同様で、

「自分が嫌われたから離婚を切り出された」という

事実よりは、

「相手がそもそも人を裏切るような人間性だった、許せない」

という怒りに震えていたほうが

自己愛性人格障害者にとってはストレス回避ができて

都合がいいのです。

 

ですから自己愛性人格障害者というのは

彼らなりの「恋愛」の上では必ずモラルハラスメントを

引き起こします。

そしてそのモラハラというのは、

「愛」という名のもとに行われることが非常に多いです。

愛である、非常識な人間に常識を教えている、

躾である、というような形が大半でしょう。

そしてそれが受け入れられない場合、

それは相手が間違っているのであって自分が間違っているとは

到底思えません。

 

そして恋愛や結婚をしていると、必ずといっていいほど

「自分は、この結婚(同棲)生活のせいで非常に苦しいし

惨めな思いをしている。生き地獄のようだ」

というような恰好で彼らは被害者になります。

しかし、その生活から意地でも離れようとはしません。

100回「あなたのことが嫌いです」と言われようと、

嫌われたという自覚すら持てないのが自己愛性人格障害者であり、

その代わり(嫌われたという事実を回避するため)に

「自分をさんざん騙した、人間の皮をかぶったアクマ」である

ターゲットに対して怒りと憎しみをぶつけていきます。

 

誰もが、防衛心理を抱えている

基本的に、

自分の本心というものは誤魔化されやすいものです。

誰がごまかすかというと、

「自分自身」ですね。

いわゆる自分の分身、もう一人の自分、

自分の影でもあり、自分の一部ともいえます。

 

遊びも何もしないという人が、

「遊びたくない、別に遊ぶことで

何か生産性があるわけでもなしに」

と言うのは、

それが本心かどうかは自分でもわかっていないという

ことです。

遊ぶ必要がない、と思っていることと

自分が遊びたいと思ってすらいない、ということは

因果関係はありません。

 

むしろ何かしらの理由で

「遊びたいというのが本心だが、

制限をかけて生きていく必要があった」

「遊びたいのが本音だが、

遊ぶことができない状況にいるので、

そう思うことをやめた」

というような場合があるのです。

 

それは、どちらも遊びたいという

気持ちはあるけれども、

それがかなわないこと自体がストレスになるけれども

どうやらいつまで経っても遊べなさそうだ・・・

つまりそのストレスがずっと続きそうだといったようだと

心を守るために、

「そもそも遊びたいだなんて思ってもいない」

ということにするのです。

 

これは、特別な人間が起こす心理防衛ではなく、

誰もが陥りやすい心理防衛ともいえます。

「防衛心理にがんじがらめになるのは

特別な、弱い人がなるものだ」と思っていると、

いつの間にか自分自身の本心がわからなくなってしまうという

状況に陥ることもあります。

 

抑圧はうつのもと

防衛機制「抑圧」は

自分の意識の中にある耐えがたい、容認しがたい

出来事やそれに付随した感情を

「無意識下」に押し込める働きです。

 

自己愛性人格障害者ももちろん、

この抑圧という働きを繰り返すのですが、

被害者もまた、モラハラを受けているという事実や

その痛みを抑圧にて無意識下に

押し込もうとする働きが見られることが

しばしばあります。

 

自分が受けていることが、モラハラである・・・

このとき、こういう攻撃を受けた・・・

というのは、被害者にとって

とても耐えがたい事実でもあります。

 

いちいち攻撃に対して

気を取られたりダメージを受けていると、

被害者の心というのはたちまち壊れてしまうからです。

 

なので、その場で攻撃を受けたとしても

ただただ受け流そうと耐えたり、

必死になって我慢してその場をしのいだりという

行動をとりがちなのです。

 

特に、何も対処法が見つからない、

反撃しようにも反撃する方法さえ分からない、

逃げ出そうとも思えない、

というような八方ふさがりの時に

特に、この抑圧という手段でしか自分を守れない

状況に陥りがちです。

 

しかしモラハラ被害下でなくとも、

もともと抑圧という手段をとりやすい人というのは

何かしらダメージを受けたときに

必ず意識を無意識下に押し込めようとして

何とかするパターンが多く、

 

結局のところそのダメージや出来事・感情自体が

なくなっているわけではなく、

ただ無意識下に放り込んでいるだけなので

その無意識下に押し込めたはずの感情が

あふれかえろうとしてしまい、

結果的にうつ症状を引き起こしたりすることも

あります。

 

自己愛が強い人の恋愛

自己愛傾向が強い人は恋愛でうまくいかない

自己愛傾向が強い人とは

自己愛傾向が強い人は、

自己愛的側面が強いということですが、

具体的にどういう意味を示すかというと、

 

「正常な精神発達の過程が為されなかった」

ということです。

 

正常な精神発達が為されるということは、すなわち

自我の確立がなされるということですが、

それは「自分と他人は別存在である」という認識と、

自分が自分視点であるように、他人にも他人の視点がある

という認識がなされるということでもあります。

自我の確立が「共感」を生む

この認識がつまり、共感性というものを人に持たせます。

人の気持ちというのは誰にも分からないはずなのに、

自分視点でこの物事を感じるならば辛いであろうから、

きっとこの人も辛いだろう。と疑似体験をするような感覚に

陥るのが、共感です。

 

それは、「自分視点」と「他人視点」があるという

認識がなくては生まれない感情です。

当然のことながら、自我の確立が為されず、

他人と自分の境界が定かではなく、

自分と他人の思考や感情がごちゃごちゃになっているような

境界性人格障害者や自己愛性人格障害者に

「共感」という感情の働きは生まれません。

 

共感力が全くない

自己愛が強い人というのは、共感しているフリというのは

非常に上手です。

ところが、共感という感情がどういうものかがピンときません。

パーソナリティ障害レベルになってくると、共感という感情が

どういうものか分かっていない、ということすら認識できないでしょう。

 

しかし、この共感性のなさが両者間の齟齬をきたし、

さらにパーソナリティ障害だと「相手が共感してくれていないことにすら、

全く気付かず、自分は共感性の高い人間だと信じて疑わない」

「他人に共感できないことになんの疑問も抱いていない様子である」

というような交際相手や結婚相手の新たな悩みを作り出すことになります。

 

また、距離感があまり近くない間は共感性が高いような

思い込みだけではなく、実際にそういう素振りを見せるような

態度も多くなりますが、

一緒にいる時間が長ければ長いほど、距離が近くなればなるほど、

相手と同化するような形になり、

「ちょっと疲れた」といえば「自分のせいだと言いたいのか」

「自分のほうが疲れている」とアピールしたり、

「だから何?」という答えが返ってくるのが当たり前になるでしょう。

 

与える能力がない

自己愛傾向が強い人というのは、

何より他人の犠牲を欲したり、賞賛を欲したりします。

どんなにみっともない自分でも受け止めてほしいし受け止めるべきである。

という考えを持つ人もいます。

ところで、こういう人達は、自分は自己犠牲の塊であるとか

犠牲精神が強いと思い込んでいることが非常に多くあります。

 

しかし、他人に何かを与えた、施した実績というものがほとんど

ないのも特徴です。

ですからその犠牲精神というものは、湧いて出てきたようなものであり

どこにも根拠はないのが特徴です。

欲しがるだけ、助けてほしいだけ、支えてほしいだけであるのに、

さも自分も「自分だったらこういう状況になっても

人を助けるのに」と自分の犠牲精神を引き合いに出し、

人が動かないのを非難します(それは直接的であったり、

心の中で思うだけであるのが違う形で急に爆発したり

と様々です)。

 

与えられることを欲しすぎているのと、

それが「当たり前」であり、むしろ与えられなかった場面を

注目し、「あの時、ああしてくれなかった」という

恨み言を言い続けることもしばしばです。

 

距離が近すぎる

自己愛が強い人というのは、交際相手と常に一緒に

いたがります。

恋愛感情が生まれるときに作り出される快楽物質に

依存しやすく、とにかく快楽を求めようとします。

また常に一緒にいないと不安になり、一緒にいたいからというよりは

相手の行動を逐一把握し、見ていないと気が済まないから

会いたい、話したい、一緒にいたいと強く感じることが多く、

それゆえ実際会ってみるとそこまで強く楽しめないといったことも

よくあります。

距離感が近すぎるということもあまり気づきにくく、

「恋人同士なのだから一緒にいて当然」

「一緒にいられないなんて、何かやましいことがあるに

違いない」

「自分に対して、気持ちが薄れてきているのではないか」

「いつも一緒にいたいという気持ちを持って当然」

というような感情が、常に自分の中にあってコントロールできないというような

事態にもなります。

 

「恋人」「配偶者」に対しての期待値が高い

自己愛傾向が強い人は、

自分の快・不快の感情をコントロールしてほしい、

するべきであるという期待を自分ではなく他人に行います。

自己管理能力が低いからです。

口では「人は一人で立たなくてはならないのだから、

親から早期に自立するべきだ」と言いながら、

いつでも、父母になんとかしてほしい、親がずっと

自分の精神的な・身体的な世話をするべきだという感情にとらわれている人も

います。

そういう人は、親の代わりに恋人や結婚相手に自分の身体的・精神的な

世話をするべきだと考え、その役割を無意識的に押し付けます。

 

ですから寂しい思いをさせたなら、その寂しい思いをさせていることを

言わなくても気づき、すぐにその不快さを取り除くことを

望みますし、

そもそも寂しい思いをさせていること自体がおかしいと思うべきだ、

許せない、恋人ならばそれくらい気づくべきだ、おかしいと怒りさえ覚えます。

 

親を恨む

自己愛性人格障害者は、

大体の場合が親(やそれに代わる重要人物)を恨んでいます。

 

自己愛性人格障害者が「自分の親はみっともない。

ただ責任転嫁するだけで、実際のところは何もしない」

と公言している場合でも、

「自分の親は立派だ。あんな大変な仕事にもついているし、

自分のことをよく理解してくれている」

と尊敬するような言い方をする場合でも、

結局のところ無意識下ではかなりの強烈な憎悪を

抱いています。

 

その恨みは、そのまま親に向くことはあまりありません。

結局のところ、親というのは自分を支配してきた

対象であり、支配してきたという実績があるために、

自己愛性人格障害者は親との関係でいえば

支配(搾取)される側である場合が多いのです。

 

ですから、そこだけの関係でいうと

自己愛性人格障害者は

「被害者」でもあります。

 

ですから、その場合の身代わりにできる人物が

必要です。

それを、ターゲットという身近な存在に

託すのです。

すなわち、自分が恨みを晴らしたい対象は親だけれども、

それがかなわない(かなわなかった)から、

自分の交際相手や、配偶者や、知人友人に

スケープゴートになってもらう。

 

もちろん、それは無意識の中の出来事です。

 

そうやって、人生のやり直しをはかっています。

そのやり直しというのは結局、うまくいかないのですが

(当然ですね、恨みを本当に晴らすべき対象は

親なのであって、その状況を再現したとしても

相手はただ配偶者であり恋人なのであって、

親ではないのですから)。

 

 

人生が思い通りにならない苦痛

自己愛性人格障害者にとって、

人生が思い通りにならないのは苦痛です。

 

ところが、たいていの人は

「人生が思い通りにならないことは苦痛である」

という認識をします。

ごくごく当然のことですね。

人生は失敗だらけだからこそ楽しい、というのは本質かもしれませんが

本気で心の底からそう思える人は少ないでしょう。

 

では、そういう人達と

自己愛性人格障害者のどこに違いがあるのか?

というと、

「人生のなかで、少しでも思い通りにならないと苦痛」

というところにあります。

少しでも、というのはどういった状況なのかというと、

 

「今日の食卓に、好きじゃないニンジンが入っている」

「自分が食事を約束したグループとの集合場所まで、たどり着くのが

20分くらいかかる」

 

というレベルです。

 

そしてこれは、

自己愛性人格障害者にとっては

「そんな簡単なことで苦痛になるの?」

ということではなくて、逆に

「こんなことさえ思い通りにならないのか」

と考える一つのきっかけになるからです。

 

苦痛になる、というのは騒ぎ出したり、ものすごく不機嫌になったり、

ひたすらに相手の悪いところを暴き出したり愚痴を言ったり、

ということになります。

 

相手、というのは上記の例であれば好きじゃないニンジンを

食卓に出してきた配偶者かもしれませんし

恋人かもしれませんし、

集合場所を決めた相手かもしれませんし

グループ全体にかもしれません。

そこは、自己愛性人格障害者の采配で決まります。

 

ところで、そんなことは日常の中でよくあるでしょう。

人生は、当然の如く予定通りにはいきません。

 

そういう「世の条理」が耐えられないからこそ

自己愛性人格障害者は何度でも

爆発してしまいます。

 

 

「必要とされたい」欲求

必要とされることこそが

自分の存在価値である。

 

ということを確信しているなら、

その人は誰かに依存しているといえます。

「自分を必要としてくれる誰か」を

求め続け、それらしい人が見つかったら

愛を感じる。

そして、その人に必要とされ続けることを

求める。

自分で自分が必要である、という実感がなかなか持てない故に、

その役目を他人にゆだねようとします。

 

そこに自分らしさというものは

必要ありません。

なのでカメレオンのように変幻自在に

自分のカラーを変えることができます。

相手が思うような色にすることが目的です。

 

そのように自在に環境に適応できることを

誇りに思っている人もいるでしょうが、

それはすなわち被害者体質に最も近い

状態ともいえます。

 

いわゆる主体性がまるでない状態です。

 

あなたを必要としている、という言葉に弱く、

相手の言葉通りに動くことが自分の愛を示す

唯一の方法だと思ってしまう。

支配者に従順に生きることこそが、

自分が愛を獲得できる唯一の方法だと思っている。

そういう人達のことです。

 

必要とされたい欲求が過ぎると、

必要としてくれない相手に不満を持ちます。

恋人であるならば、こうするべきだ。

夫婦とは、こういうものだ。

という形に何よりも拘りやすいのはこういう

人達です。

必要とされなくなっているという不安が

常につきまとい、

どうにかして相手に従順でいることを、

一途である自分を示そうとして結局、

相手の都合のいい存在になってしまいます。

 

 

「損」に対して敏感

自己愛性人格障害者というのは、

目先の損得というものに非常に敏感です。

 

といっても、

「これをするとお金が入ってくるから得だ」と

無責任になんでも引き受けたりする、

というわけではなく、

自己愛性人格障害者が何を得と感じて

何を損と感じるのか、というところにも

関連してきます。

 

たとえば、お金に関して言うと

「お金を誰かのために使わなくてはいけない」

というのは、自己愛性人格障害者にとって

損に直結します。

とてもストレスです。

 

ですから、モラハラは経済的DVにも発展しやすいです。

それが生活費であろうとも、

子供に関わる必要経費であろうとも、

「お金を使わなくてはいけない」ということに関しては

非常に損でありストレスという考えを持っています。

 

ここで特筆すべきは、

それが「自己愛性人格障害者のお金でなくても、

被害者側のお金であっても」そう感じることがあるという点です。

 

たとえば、自己愛性人格障害者が自分の給料で

生活費を出さなくてはならず、配偶者(被害者)側は

専業主婦だったとします。

 

自己愛性人格障害者は

「お前は何に金を遣っているか分からないから、

こっちが管理する」。と言い出します。

これだけ見ると、配偶者側がたとえ浪費をしていなくても、

自分のお金を取られているようで嫌なのかなー、と

被害者や第三者は思うでしょう。

なぜなら、そのお金は確かに自己愛性人格障害者の

労働によって得られている報酬だからです。

 

ところが、自己愛性人格障害者がもし

専業主婦側、あるいは極端に収入が少ない側で、

収入源がほぼ被害者側の給料であったとしても、

それでも「お前は何にお金を使っているか分からないから、

こっちが管理する」。

という発想を持つのが自己愛性人格障害者です。

 

なぜ、こういうことが起きるのかというと、

「配偶者のお金も、自分のお金」という思想が強いからです。

他人と自分の境界が曖昧な彼らというのは、

配偶者が自分の給料で配偶者のために使うお金というのも

自分が損している気分になります。

 

そして、自分のために使われないお金というのは

「自分のために使われるべきお金が減っている」

という感覚にもなります。

そのお金が自分のために使われ自分が楽しむことができれば

問題ないですが、

他人が楽しんだりする分では、自分を差し置いて

相手が楽しんでいる気分、贅沢をしている気分になるので

一気に「自分は不幸だ」「自分だけ幸せになろうとしている」

というような被害者意識を引き出すきっかけにも

なるからです。

 

他人の真似をする

「取り入れ」という心理防衛機制があります。

この取り入れというのは、かなり自然な形・そして無意識的な形で

その個人に浸透していることがよく見られます。

 

まるで他人の真似をしているように感じられることも

多いでしょう。

というのも、容姿をそっくりそのまま自分の中に取り入れる、

それだけでなく持ち物を他人のものとそのまま同じようにする

(まるで真似されたほうが何と思うか考えてもいないように)。

誰かが発した信念を、なんの疑いもなく「その通りだ」と

まるで自分も同じように考えていたように感じ、

それを自分の考えとして発信する。

そういうこともあります。

 

「他人の信念を、まるで自分発信のものかのように扱う」、

というのは自己愛性人格障害者に目立つことですが、

取り入れ自体が自己愛性人格障害者に顕著というわけでもなく、

単に努力家で、人を害することを考えてもいないような個人が

こういう取り入れの傾向を見せることもあります。

 

ですから、そういう知人がいつの間にか自分の持ち物と

同じようなものをどんどん買っていて、

それがいつの間にか増えているような状態だと

なかなかその個人に「真似をしないで」といえない状態に

なることもあります。

 

そしてその個人も、取り込みはごく自然に行われるので、

意図的に真似をしたとか人のアイデアを奪ったとか

そういう意識はまったくありません。

相手が持っていたからいいなと思った、という感情から

自分を真似をした・・・というのが事実なのですが、

「いや、自分はもともとこれをいいなと思っていた」

というような考えのもとで自分はこれを買ったのだ、

と考えていたりします。

 

アイテムではなく思想も同じように、

「誰かの考えをいいな、確かにその通りだと思った」というよりは、

「そもそも自分も同じことを考えていて、

あの人の発信がたまたま先だっただけ」

というような思考過程のもとで、

他人の思想をまるで自分がもともと持っていた思想のように

感じてしまいます。

 

自己愛性人格障害者であろうと、

そうでなかろうと、取り込みはかなり無意識の中で

行われるものです。

 

持ち物や思想で人は測ることはできませんが、

誰しも自分の思想やアイデア、持ち物を次から次に

真似されることは嫌います。

それ自体がアイデンティティにはなり得ませんが、

好みも、持ち物に対する思い入れも、持ち物を選ぶ特性も、

基準も、その思想に至った過程もすべて、

アイデンティティを構成する要素ではあります。

 

それらをすべて真似されることは、

それまでの過程を台無しにされている気分にもなるでしょうし、

蔑ろにされている気持ちになることもあるでしょう。

自分の個性そのものを消そうとされているよう、

乗っ取ろうとされているようで

気味が悪い人もいるでしょう。

 

取り入れをする側というのは、

アイデンティティの確立がなされておらず、

その部分を他人を取り込もうとすることで

補正しようとすることが多いです。

 

ですから、その個人が感じる「アイデンティティを乗っ取られようと

しているような気味の悪さ」という

所にまで配慮できないことが多いですし、

そもそも無意識で行われるものですから

相手がどう思うかという以前に自分でも

「何かを取り込もうとしている」ということさえ

意識できません。

 

 

いわゆる流行に乗る、賞賛されている思想に乗っかる

というのも同様で、

「自分がいいなと思ったもの」という認識で

それを利用することは問題はないのですが、

「それは自分自身の発信した思想であり、嗜好である」

 というような観念にすり替わってしまうと、

 

流行に乗らないよりは乗ったほうがいい、

何かを知らないよりは知っていたほうがいい、

センスがないよりはあったほうがいい、

信念がないよりはあったほうがいい、

というような単純な・・・しかしアイデンティティが確立

していない人間にとっては非常に重要な

「行動のポイント」になってしまいます。

 

本来個人にとってはどうでもいいようなものでも、

「これをやったほうがいい」というような世間の論調に

簡単に(何度も)押し流されてしまう、

 ということです。

「これをやったほうがいい」

「これは持っておかないと恥ずかしい」という他人の考えを

そのまま自分のもののように感じ取り、

「これはやっておいたほうがいいよ、なぜなら・・・」

「これは持っておかないとおかしいよ。なぜなら・・・」と、

さも自分の意見のように、他人の意見をそのまま

持ってきてしまいます。

それなのに、それらが他人の意見だとは思わないわけです。

取り込んでしまっている時点で、

自分自身の意見だと思い込んでいます。

 

取り込みが多ければ多いほど、

自分自身の意見ではなく他人の意見をそのまま

鵜呑みにし、それを自分自身の意見にすり替え、

ステレオタイプな生き方しかできなくなってしまい、

その観念について問われても自分の意見を

述べることができません。

 

その取り入れたいものは

自分にとってアイデンティティの拡散により

生まれる生きづらさや不安などを

出来るだけ軽減させるためだけに

得るものですから、自分の好きとか嫌いとか

どういう嗜好・考えでそういった思想を選んだとか

そういうことまで考えていられません。

 

取り入れたいものが社会通念からしても「立派そう」、

あるいは「素晴らしそう」なものであり、

大衆が好みそうであればなんでもいいのです。

そこに、自分の都合(それを取り入れることにより、

何か合理化ができる)が合わさればなお良いです。

 

隣にいる友人のアイテムと同じものをなんでもかんでも

欲しがるのであれば、

アイテムが好きだから欲しいのではなく

「その友人のセンスそのものを欲しい」ということでもありますし、

取り入れている時点でその個人は

「この友人と同じセンスを持っている・

むしろ自分自身のセンスである」

と思っている可能性が非常に高いです。

 

何かの思想を積極的に取り入れているのなら、

「自分はそういう人間である」と思い込みたいからこそ

取り入れている場合もありますし、

そういう場合はその思想を何度も何度も他人に聞かせたり

(その他人がその話は聞き飽きたかもしれない、とさえ

思わずに)、

「その思想を持ち続けるに見合っている自分」という

幻想に浸りたいからこそそういう思想を取り入れる、

という言い方もできるでしょう。

 

 

 

 

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毒親と絶縁しても、罪悪感を持つ

基本的に、

罪悪感を持つ人というのは

何に対しても・・・ひどい場合は犯罪の被害者に

なった場合でも、

「自分の問題なのだ。自分のせいなのだ」

と思い込みやすいです。

 

すべてを自分の責任だと思い込みやすい特性があるからこそ

なのですが、

その特性も、誰か親のような立場の人、近しい立場の人間から

責任や役割を負わされてきた名残ともいえます。

 

親の機嫌を損なわない、あるいは親の精神的・

身体的な世話をする役割、というのは

特にそういう特性の人が育つ可能性が高いでしょう。

 

なぜならそういう親というのは、

「親の面倒は、子供がみるべき」

「親が不機嫌なのは、子供が言うことを聞かなくて

わざと逆らうから」

「親が辛いときは、子供が支えるべき」

というような「親が精神的自立できていない部分であるだけの

話を、さも子供の責任であるかのようにすり替える」

ことが得意だからです。

 

子供は従順であるので、

その親のいいつけを当たり前のようにして

生きていきます。

 

親という存在は子供にとっていつまでも

支配者であり監護者であり続けるかぎり、

子供は一人暮らしをしようが社会人になろうが

いつまでも精神的な自立・自律ができなくなります。

 

自分の人生観が社会とズレがあるとわかったとき、

そして自分の親がいわゆる毒親であると

気づき、距離を置こうとしたとき、

それでも子供は罪悪感を抱くのが当然です。

なぜなら、人(親)を見捨てるのは子供ではない、

距離を置こうなとという親不孝は許されないという

ことを親が散々幼少期に子供に教えつけているからです。

 

毒親はどういう時期に来ても

いつまでも精神的自立を果たせていないままの

ことのほうが圧倒的に多いですから、

毒親と絶縁しようとすると

毒親はまた必死に罪悪感を植え付けようとするでしょう。

 

実際には毒親が自立できていないからこそ

距離がおけないだけの話なのですが、

それをいつまでも子供のせいにしてしまい

子供が離れることにさえ罪悪感を持つ、

強烈な不安に襲われるというのは

いわば宿命のようなもの、当然のことです。

 

自己愛性人格障害が治らない理由

自己愛性人格障害者に関するサイトを巡っている人の中には、

「上司がもしかしたら自己愛性人格障害者かもしれず、

パワハラ(モラハラ)を受けて困っている」

という人は、

「夫(妻)がどうやら自己愛性人格障害者らしいので、

どうにかして治したい。

何か医療関係者でも知らないいい方法が民間のサイトに

落ちているのではないか」

「治るのはもう諦めたけれど、

ではどうしたら傷つかずに一緒に生活できるんだろう」

・・・という幾多の事情により情報を集めているパターンも

あるでしょう。

 

興味本位にどういう実態があるのか調べるよりも、

いろんなサイトを、丹念に、

丁寧に回って読み込む人がきっと多いはずです。

 

それは、被害者や困っている人の

「とにかくモラハラの辛さから

解放されたい」という想いがそれだけ強いということです。

むしろ、治すための執念、あるいはモラハラから解放されるための

執念のようなものでもあるでしょう。

 

第三者は、すぐに「なぜ?」と考えます。

なぜ、そんな人のそばにいつまでもいるのか?

だったら離れればいいのでは?と。

配偶者なら「まずなんでそんな人を選択したの?」と

疑問を抱かれるかもしれませんし、

職場であれば「別に一生一緒にいないといけないわけでも

あるまいし、なぜさっさと辞めないの?」と

言われることもあるでしょう。

 

社会とはそういうものです。

そして離婚したら離婚したで、「さっさと離婚するんだなあ」

「子供がかわいそうだなあ」と言われ、

職場を離れたら離れたで「さっさと仕事を辞めちゃうんだなあ」

「勿体ない」と言われるかもしれません。

それも、「社会とはそういうものだから」としか言いようが

ありませんね。

特にモラルというものに非常にうるさくなっている昨今、

「社会」というぼんやりした実態のないものが

個人を責め立て、「モラハラ的」になってしまっています。

 

同じくモラルに五月蠅い被害者であれば、

「こんなことで別れるなんて!」

「いや、仕事はやめたくない。責任を放棄するのは違う」と

自分で自分を袋小路に追い込んでいくでしょう。

 

被害者は、「大きな変化」「モラルのない行動」を嫌います。

そういう人ほどモラルハラスメントでとんでもない傷を負いながら、

それでもこれに耐えればきっと道が見えてくると

思っていたり逃げるという選択肢は後回しにしたりします。

 

加害者の自己愛性人格障害が治らない理由というのは

ここにあって、

つまり、ターゲットというものが何としてでもそばに

いて、モラハラの標的になってくれるので、

治す(自分の異常性に気付く)必要がないのです。

 

だって、その鏡はどれだけ責任転嫁の対象にしてもストレスのはけ口

にしてもどうやら自分のそばから

離れられないようなので、

いちいち治す必要がありません。

 

自己愛性人格障害者のモラルハラスメントは、何度も

このサイトで伝えている通りに「自分を守る盾」です。

防衛機制がただただ過度になりモラハラという様相を

呈しているだけであって、自己愛性人格障害者は

その仕組みに気が付いていません。

 

ただただ自分が優越感に浸りたいがため、

自分が「思い通りにならないストレス」に耐えられないがために

相手のミスやささいな欠点が気になり、むしろどうにか修正

させないと気が済まなくなり、

そんな思いにさせるターゲットは悪意があり意図的に

やっているのだと信じるしかなく、

それゆえ被害者に対する攻撃性を一層強めるしかありません。

その繰り返しです。

 

そうやって自分の代わりに傷を負ってくれ、

自分の代わりに責任をとってくれるような人がいれば、

いちいちモラハラをやめる必要などどこにもないのです。

 

それを、「治せ」と言われても、

「ここまで人を苛つかせる天才であるお前のほうが

異常だ、人を異常者扱いして、

お前こそ治療してこい」という思考過程をとるのはごくごく

自然なことです。

 

 

 

「愛」さえあればなんとかなるのでは?

自己愛性人格障害者が「お前のために治したい」と

言っているのだからそれは治療に向けた一つの

指標になるのでは?と感じる人もいるでしょう。

 

実際に、「お前のために」と言っている時点で、

その自己愛性人格障害者は自分のモラハラ思考に

まず気づいていないといえます。

気づいていたら、「お前のために」とはとても言えません。

なぜならシステム上「誰かのために」という観念がないからです。

モラハラ思考に気が付けば、

自分が「誰かのために」何かをしようとする力がまずない事に

気が付くのが先になります。

そして、「誰かのために」と叫びながら、実は自分のことしか

考えることができていないことにも気が付きます。

 

モラハラの自覚というのは、

自覚したからといって、急に「ああ、自分はなんて

酷いことをしてきたんだ。これからは相手のために

尽くそう!」などという魔法が解けるかのような

寛解の仕方をするわけではありません。

 

自己愛性人格障害は「病」ではありませんから、

自覚したところで急にそのモラハラ思考がなくなる

わけではないのです。

自己愛憤怒も現れますし、責任転嫁も現れます。

基本的な性質は何も変わりません。

 

自分のモラハラ思考と、普通の人の神経が何が違うのか?

と自問自答することもあるでしょう。

自覚するということは「自覚しないほうが損」、

つまりモラハラ思考でいたままのほうが損をすると

思った時点での自覚になりますが、

当然ですがモラハラ思考のままであれば自分が傷つかずに

済みますし、周りが責任もとってくれますし、

攻撃性も隠さずに済みますから何よりも得です。

 

そんな状況よりも、現実(の自分)を見ないほうが

ずっと損である・・・・、と感じる場面がなくては

ならないのですが、ターゲットがいる以上は

文字通り鏡となりそんな自分を直視する瞬間などない

(むしろそのためだけにターゲットがいるのですが)

ですし、

ターゲットがいなくなろうとしても粘着すれば

また戻ってくるようであれば粘着すればするほど

鏡を失わないで済むと学習します。

ターゲットが実際にいなくなっても、

そういう「被害者」であり「自分から望んで

自己愛性人格障害者のもとを離れない」人間は

ゴマンといるのですから、

やはりモラハラ思考を治さなくてはと考える機会を生むよりは

そちらのほうがずっと効率的であり労力もかかりません。

 

鏡としての資質があれば誰でもいいのです。

「モラルハラスメントにより、明らかに傷ついている

様子を見せる(他人の傷は分かりにくいが、この反応は図星なんだろう、

やっぱり自分の言っていることは正しいのだ。

それともこいつは被害者ぶろうとしているのか?)」とか

「思い通りの反応・行動をしてくれる(コントロールされることに

寛容でありむしろ自分から支配されにくる)」とか

「反抗してくる(正義である自分に逆らったという

大義名分ができる)」

というような資質が増えるほど、鏡としては優秀です。

だからこそ「アイシテイル」ということができます。

ただ、それはモラハラ思考ゆえですから、

モラハラ加害者でなくなれば被害者に対するそういう

「アイシテイル」もなくなるわけです。

 

被害者の被害者資質を愛している(と思っている)わけですから、

被害者そのものを見て愛しているわけではありません。

 

その「愛」でもいいからほしい、なんでもいいから

愛してほしいという被害者がいるとするならば、

被害者自身もその自己愛性人格障害者に執着しますから、

その自己愛性人格障害者は一生モラハラから離れることは

できないし、逆もまた然り、ということになります。

 

母親の共感的態度の重要性

自己愛性人格障害者の幼少期に

母親がどう関わっていたか?という研究は

いくつか挙げられていますが(父親はどういう

関わりをしてきたか?ということも同様ですが)、

その中でも母親の非共感的・非受容的な態度は

自己愛的性質を高めるという研究結果も存在します。

 

当然では?ともいえますが、

非共感的態度をとられると、

「共感してほしい」ための試行錯誤を

子供がし続けなくてはならないことも一つ

要因として挙げられるでしょう。

そして「受容的でない」のであれば、

それはそれでも受容してもらうための

工夫をし続けなくてはなりません。

 

そうでなければ、誰も自分のことを

受け入れようとしてくれず、

誰も共感してくれないということになります。

「誰も」というのはそれだけ親という存在が

子供にとって絶対的で非常に重要な存在であるからです。

その存在が受け入れてくれる、その感情を

自分の中に取り込むからこそ

子供は自分の中に「自分を大切にする」という

基本的な自分への愛情を持つことができます。

 

しかし非共感的・非受容的であると、

その感情を自分の中に取り込まなくてはならず、

「自分を許せない・受け入れられない自分」を

自分の中に飼い続けることになります。

 

しかし、それ自体は自分を守ろうとする心、

ストレスを回避する

そのシステム自体の強化につながり、

 

許されない・受け入れられない未熟な自分とバランスをとるために

どれだけ自分が優秀で、正義感にあふれていて、

皆から尊敬されるような人物である・・・ということを

思い込まなくてはならなくなります。

 

 

でしゃばりである

自己愛性人格障害者は、

何もかもに口を出そうとしますが、

これはコントロール欲、支配欲によるものであるのと、

「自分の言う通りにしていれば、万事うまくいく」

という思い込みのためです。

 

そのため他人の自立性・自主性というものを嫌います。

他人を攻撃・支配するために

「自主性をもっと持て。なんでもかんでも

指示通りに動こうとするな」と言いつつも、

実際に他人が自立性を持つことは嫌うという

矛盾を持っています。

 

なぜ、他人は思い通りに動かないのか?

なぜ、他人はここまで愚鈍なのか?という

観念も持ちやすいのですが、

自分がでしゃばることにより他人の自尊心を

傷つけたり相手の時間を奪うことに関しては

無頓着です。

ですからターゲットがそれについて訴えたとしても

「お前が言うことを聞かないから教育しているだけだ、

言われているだけありがたいと思え」

という態度をとり続けるでしょう。

 

特に家族に対しては顕著にそういう関わり方を

するでしょう。

家事・育児のあれこれに口を出し、仕事の仕方に口を出し、

金銭・スケジュール管理に介入し、人生観に口を出します。

そうしないといてもたってもいられないからです。

 

しかし、自分が責任をとらされそうだったり

何かしら面倒なことに巻き込まれそうだと思ったときは

そこだけはピタリと口だしをやめるのもまた

彼らの特性といえます。

 

病理的なナルシシズム

自己愛性人格障害者に限らず、

誰しもが自己愛的な行動や思想を起こす

可能性をはらんでいます。

 

自己愛性人格障害者というのは

それが顕著であり、過度であるという特徴を

持ちますが、

一種の「誇大的な思想」、過度な自己陶酔などが

それに当てはまるでしょう。

 

自己陶酔というのはそのままの通り

「自分に酔う」ということです。

ナルシストと聞いてすぐイメージをするのがこの

自己陶酔した人間の姿でしょう。

 

自己愛性人格障害者が必ずしもああいう格好を

常にしているわけではないので、

いかにもナルシストで見た目の恰好ばかり

気にしているのが自己愛性人格障害者というような

イメージが定着しているのは問題ですが、

 

自己愛性人格障害者の姿の一部である、

ともいえます。

 

自分の格好良さを自慢するというのは

必ずしも見た目に限ったことではないですが、

見た目に関すること、たとえばかなり眼鏡が似合うとか、

髪型はどうだとか、目力があるとか、

そういった些細なことでも

自分に酔う要素があれば自己陶酔ははっきりと出ますし

それをターゲットに表現することもあるでしょう。

 

それ以外でも

自分の能力のすばらしさを説いたり

天からもらった才能があるとはっきりと口に出したり、

そこに「恥ずかしい」という概念は存在しないかのように

振舞うのも特徴的です。

 

 

「必要とされたい」という依存

誰かに必要とされたいとか、

必要としてくれる人、愛してくれる人を

好きになってしまうという人は、

確実に相手に対して依存を起こします。

 

まるで最初はタイプではなかったという相手に

対しても、とても強く、情熱的に

その人間を愛するようになります。

人となりを愛しているというよりは、

「自分を必要としてくれる人だから」依存していることを、

なんとなく自覚している人も多いでしょう。

間違いなく愛していて、誰よりもこの人を

愛していると感じているのに、

自分にもしこの人が興味を持ってくれていなかったら

自分も興味はもっていなかっただろうとか、

こういう風に関係を持ったりはしなかっただろう・・・と

うすうす気が付いている人も多いのです。

 

その人自身ではなく、

あくまで自分を必要としてくれるその人、

に気が向いているのであって、

その人が自分に対してそっぽを向こうものなら、

何が何でも自分のほうにまた振り向いてほしいと

願い続けます。

そうしないと、

「自分は本当に必要のない人間」のように

感じてしまうからです。

 

それは、その人に自分の存在価値を一存しているような

ものですから、

相手にそっぽを向かれたりちょっと愛情が薄れてしまうようだと

途端にいてもたってもいられないような

感情に追い詰められてしまい、

その愛情を再獲得するために自分をどこまででも

落としてしまいます。

 

その行為自体が自分の価値を貶めてしまっているとも

知らずに、ひたすらに愛を獲得するために

相手の顔色を窺いながら動きまわるのです。

 

そういう人は、

「愛されていると思うことができたら100」

「ちょっとでも自分の考える愛と違えば0」

というような極端な思考に嵌りがちです。

 

相手の気持ちは思い通りにはいきません。

神の前で愛を誓ってくれた相手でも、

その相手自身でさえ自分の気持ちはコントロールできないのですから、

そういう相手に自分の価値を一存してしまえば

辛いのは当然のことなのですが、

それでも相手に愛されることを願ってやまないのが

この依存体質の人達です。