防衛機制の「脱価値化」とは

 自己愛性人格障害者や心理学について勉強していると、

「脱価値化」というワードが「理想化」という単語とセットになって

よく出てくるかと思います。

 

そもそも脱価値化、という言葉は

普通に生活しているとなかなか聞きなれない用語です。

脱価値化とは何か?なぜ理想化とセットになって

出てくることが多いのか?

順を追って解説していきます。

 

 

 

防衛機制の「脱価値化」とは

脱価値化とは、「価値をなくす」という

表現通りの意味があります。

 

価値がなくなる、のではなく価値をなくす、という

心理的働きです。

 

これだけだと意味が分かりにくいので、

ちょっとした例をいくつか挙げていきます。

 

「脱価値化」の例

たとえば、自己愛性人格障害者が

仕事で部下がミスをしてイライラしていたとします。

この不愉快さをどうにかおさめてほしい、

おさめるべきだ、完璧におさめられる人間のはずだと

勝手に期待しているのが「理想化(原始的理想化)」です。

 

このとき、自己愛性人格障害者の中では

対象・・・つまりターゲットに対して

「自分の不快さを完璧に取り除いてくれるはずの

人間」という理想化した相手だけを認識していて、

 

「そうでない場合もある(それが出来ないこともある)」

という認識はまるでもっていません。

 

人間は、その人間の事情があり都合もあって、

その人間の考えがあって、

自分にとって都合のいい答えを出してくれる日もあれば

そうでない日もある。

自己愛性人格障害者にとって好きな部分もあれば、

嫌いな部分もある。

 

・・・という、ごくごく普通の事が

自己愛性人格障害者にとっては「認識し難い」ことなのです。

彼ら自身が統制された存在ではないからですね。

「完璧」でない自分というのは「価値のない劣った」自分である

という認識である彼らは、

対象に対しても同じような認識しかできません。

 

ターゲットに対して「お前は素晴らしい人間のはずだ

(だって自分では取り除けないこの不愉快さを

絶対に取り除いてほしいから、

それが出来ないなんて現実を見るのは

それだけで苦痛だ!)」

 

という無意識のもとに、

ターゲットに多大なる期待を寄せます。

 

自己愛性人格障害者のイライラをすっきりキレイに

取り除くこと。

それが出来ないとわかったとき(そもそもイライラは自分自身で

処理しないといけないことなので、そんな魔法のようなことは

出来ないのは当然なのですが)、

彼らはこう思います。

 

「お前は、このイライラをどうにもできない人間なのか」

「お前は、こちらの期待に応えられない人間なのか」

「お前に価値はない」。

 

という思考です。

これが、脱価値化です。

 

 

自己愛性人格障害者と夫婦であった場合、

実際の生活場面でどうなるかというと、

 

「パートナーなのに相手がどう苦しんでいるかも

理解できないのか」

「パートナーの気持ちを汲んで、

労わろうという努力さえしないのか」

「相手が何を望んでいるのかさえ理解しようとしないのか」

「それどころか、こっちが苦しんでいるのを

嘲笑っているんじゃないか」

「じゃあ、この結婚生活自体に価値がないな!」

「なんでこんな結婚をしたんだ!お前のせいだ!」

 

・・・と、阿鼻叫喚をきわめることになるでしょう。

 

 

この場合、

ターゲットが自己愛性人格障害者に対して

気遣いをしたとかどういう言葉かけをしたかというのは

関係ありません。

優しく抱きしめたとか、温かい食事を出したとか、

自己愛性人格障害者の愚痴を聞いたとか

仕事に関するアドバイスを出したとか、

そういう事は彼らにとって意味がないのです。

 

自己愛性人格障害者が望むのは、

「この不愉快さを消せ!」ただ一点のみです。

 

その不愉快さを消せないなら

何をやっても意味がないのです。

 

むしろ、的外れな事をしやがって!

全然空気が読めないやつだな!

というような怒りを誘発するきっかけにしか

ならないでしょう。

 

 

 

 

理想化と脱価値化はなぜセットで出てくるのか

なぜ、脱価値化が理想化とセットにされるかというと

このように

「自分の期待に応えてくれる(理想化)」

「自分の期待に応えない(脱価値化)」

 

というような、極端な見方で

対象を捉える特性が彼らにはあるからです。

このような極端な分け方をする心理を

分裂(スプリッティング)と言います。

 

心理学において

理想化、脱価値化、分裂(スプリッティング)

セットで頻出する用語です。

 

 

ちなみに自己愛性人格障害者でなくとも

この特性は見られることがあります。

 

この記事を書いている私も、

この記事を見ている方も、

幼少期に必ず経験する心理的な発達過程だからです。

 

たとえば2~3歳の子どもにとって、

「母親は完璧に自分を満足させてくれる人」です。

母親にも出来ないことがあること、

都合があることは考えようともせず

オモチャを買ってもらえないと

「自分を満足させてくれるはずの存在なのに」と

泣きわめき、もう大嫌いだと母親を叩く

こともあるでしょう。

 

各々の理由・・・幼少期の虐待や従属的環境に置かれるなど

これらの発達過程が損なわれた場合において、

「理想化」「脱価値化」という対象を二極化した思考のまま

成人になる・・・ということになると

何らかのコミュニケーション障害を引き起こします。

 

人というのは当然、

統合された存在であって「いい自分」も「悪い自分」も

「得意分野」も「不得意分野」も趣向も興味のない分野も

あるからです。

 

なのに「(自分にとって都合のいい)完璧な人間以外認められない」

という自己愛性人格障害者とのコミュニケーションを

健全に・円滑にとれる人間というのは、

まず存在しないでしょう。