執着=愛ではない
自己愛性人格障害者のターゲットになりやすい人の
タイプとして、
「執着=愛」だと思い込んでいる人が目立ちます。
相手に執着するってことは、
それだけ興味があるっていうことでしょう?
という疑問はある程度は合っています。
しかし問題は、執着の程度が強ければ強いほど
愛情が強い、という観念を持っていることです。
こういう人は束縛が強い人は相手に対する執着も愛情も
強いと考えがちで、
逆に束縛されないと寂しささえ感じてしまうパターンもあります。
そしてその延長で暴言や甘え、
自らの権利擁護が発生するのだと考え、
「仕方ないな、これも愛情の裏返しなのかも」と
相手の攻撃性を受け入れてしまいます。
やたらと束縛するようなモラハラタイプの
人間ばかりを選ぶ人というのは、
そこまで執着してもらわないと孤独感を感じやすかったり
自分に興味を持ってもらえていないんじゃないかと
虚無感に襲われてしまう人でもあります。
執着してくれるくらいの相手でないと物足りないというわけですね。
その相手が愛情をもってくれているかどうかを
「自分への執着、束縛」でしか測れないという結果も招いてしまいます。
そういう物差しで人の愛情を測ってしまうと、
確実にその人は同じようなタイプのしつこい相手と
似たような恋愛を繰り返してしまうでしょう。
そして執着=愛ではないですから、
そういう執着してくる相手に限って、
外では浮気三昧ということも「なきにしもあらず」です。
それでもターゲットの愛情の基準がそこから外れないと、
相手の執着心は愛情からではないのか、
ということをいつまでも確かめようとする
傾向にあります。
浮気されようと、モラハラされようと、
相手が暴挙に出ようと、
「愛ゆえに行っていることなのかも」という一点以外の
現実をすべて排除してしまいます。