過干渉は共感性の欠如

過干渉という言葉がありますが、

過干渉は立派な虐待に当たります。

 

ですが、過干渉の多くはその問題点が

露見されにくいものです。なぜなら、

過干渉をする者の多くが巧妙に

「これは愛から行っているものである」と

主張するからです。

 

たとえば、ここでいえばモラハラなどは

愛を理由に行うものだと自己愛性人格障害者が

主張すると述べることが多いですが、

実際にモラハラを受けたことがない人からすると

「モラハラが愛?」

「それを愛だと感じてしまうほうにも

問題があるのではないか?」と感じることでしょう。

 

しかし、過干渉だと「いや、いろいろと口出しするのは

君の親御さんが君のことを心配しているからだよ。

愛情の表れだよ」

なんて台詞はものすごくしっくりくることでしょう。

 

ところが、過干渉というのは

「口出しをしてくる」ことではありません。

口出しをすることによって、

親が何かを得ようとする働きになります。

 

なので、口出しをするだけにとどまらず、

子供を何かしら自分の思い通りにしたいという

意識が目立ちます。

 

子供を通して自分の願いを叶えたい場合は、

子供の服装や髪型を着せ替え人形のように

勝手にコロコロと変えたり、

自分のほうが正しく、強く、必要とされる人間なのだと

思いたい場合には

自分の子供を「だらしがない」「自分がいないと

生きていけない子」に仕立て上げようとします。

 

どちらも、

「愛があるから、この子が似合うような容姿にしてあげたいだけ」

「愛があるから、世話をしてあげたいだけ」

と言い換えることができますが、

そもそもここには

「こどもの意志」というのは介在しません。

あくまで、親の欲求を叶えるためだけのアイテムでしかなく、

着せ替えられたこどもがどう思ったか、

それを本当に似合うと思ったか、

は親にとってあまり関係がなく、

「親が選んだほうが似合うにきまっている」

という決めつけしか存在しません。

 

親にいろいろと世話をされる子供が「自分でやりたい」という

気持ちを持つことに対しても、

「自分でやったってうまくいかないじゃない、いつも」

と自分でやりたい気持ちを無視したうえに、

どうせそれは失敗するものだ、というような

決めつけまでも行って、子供の意志や尊厳はそっちのけに

してしまいます。