現実逃避の心理とは

自己愛性人格障害者ほど

現実逃避の心理が強くなくても、

基本的に人間というのは

現実を「そのまま見る」能力がありません。

 

人は、誰かがひそひそ話をしていると

「自分を見て笑っている」と感じたり、

不愉快な気持ちになることは少なくありません。

 

誰か身近な人が亡くなったとき、

「自分があの時ああしていれば」と

考えることもあるでしょう。

 

現実的に考えて「そう」していたとしても

その誰かが亡くなるといった可能性が全く

減らない場合でも、

人はそのようにして自分の責任というものに

焦点を当てるものです。

 

「あの子なんか大嫌いだ。どっかいっちゃえばいいのに」

と子供が思っていたとして、

その「大嫌い」な相手が不慮の事故で亡くなってしまったら

「あのとき、自分が嫌いだなんて思ったから」と

自分の責任を多少感じるのが人の心というものです。

事故と自分の念は関係ないはずなのに、

自分のせいなのでは?と子供心に罪悪感を感じてしまいます。

 

モラルハラスメントを受けていたところで、

それが「単なる攻撃である、八つ当たりである、責任転嫁である」

と感じることができるかどうか・・・という話になりますが

まず無理でしょう。

人は、なんとなく「ああ、この人がこれだけ憤慨

しているのだから、その通りなのかもしれない」

「なにかそれだけ怒らせるようなことをしたのだ」

という考えを以てつじつま合わせをするのが通常です。

 

そうでないと、自己愛性人格障害者が

そこまで怒りを噴出させている理由に合点がいかないからです。

 

人は曖昧な状況というものを嫌いますから、

なんとかして理由をこじつけようとします。

 

それがいくら些細なことであっても、

「些細なことでも、こだわりが強いこの人にとっては

とてもストレスが溜まることなのだ」と思ってしまえば

なんとなく自分の中で無理やり納得させることができるのです。

 

その例でも、

「現実」というものを見ていません。

ただそれは、現実というものがそのまま受け取ると

非常に厳しいものであるために、

人間は現実を「自分の都合のいい色眼鏡」で見るしか

ありません。

 

その強烈な色眼鏡と言えるのが

モラハラ思考です。

極端な責任回避、極端な自己防衛、

誇大化された自己、弱点と欠陥ばかりの他者と社会。

 

それらは自分の都合のいい面しか見せない反面、

現実は完全に見えていません。

自分が人生を送ってきたなかでいつのまにか

「そういう色眼鏡=モラハラ思考」をつけていることさえ

気が付かない状態なのですから。

 

しかし防衛心理がそうさせるのですから、

ただその防衛心理が過剰にならなくては

生きていけないほど彼らの現実が過酷であったことを

意味します。

 

それは、そばに支配する者や搾取する者が常に存在していた

ということでもあるでしょう。

 

 

現実を自分の都合のいいようにとらえるというのは、

誰もが備えている「厳しい現実から

心を守る盾」です。

 

それは良い側面もあります。

「霊」の存在を信じるというのも一種、そうでしょう。

例えば中国や日本で言うなら「お盆」には

祖先の霊を迎え、送るという側面があります。

 

霊というものを誰も見たことがないのに、

それを丁重に迎え、さらに見送るのです。

 

そもそも霊、というものがいるかいないかすら

現実的には立証できていません。

死んだ者がどうなるかは誰も知らないはずですが、

では身近でとても大切な人が「死んで、そのあとは消滅して

きれいさっぱりいなくなる」と考えるとすると、

残された者たちの心は一体どうなるでしょうか。

 

それよりも、霊など見たことがなくても

「きっとそばでずっと見守ってくれている」

「あの世で見守ってくれている」

と思ったほうがずっと精神的には楽ですし、

人というのはそう思わずにはいられないのです。

 

どう思えばその人が精神的に「苦しまずに済むか」

というところで、

「あと20秒家を出るのが早かったら

あの交通事故に巻き込まれるところだった。

ちょうどカギをかけたかどうか気になって

たまたま確認しにいったのが幸いだった。

きっと亡くなった母親が知らせてくれたのだ」

「人は天国や地獄になんかいかずに、

きっとこの世でずっと見守ってくれて

いるのだと思う」

というような具体的な思想に近づいていくでしょう。

 

こういう例を見てみても、

現実的にはありえないような状況を

人は信じたがる、信じずにはいられない、

そしてそれが人の心の支えとなり助けとなるのです。

 

ですから防衛機制を完全にはがして生きていくなどといった

行為はまず無理です。

しかし、防衛機制が強すぎると防衛機制の操り人形と

なってしまい、

自己愛性人格障害者のようにただの脆さを

防衛機制で補うしかなくなり、

強烈な自己防衛の犠牲としてターゲットが搾取されるしかなく、

彼ら自身もまた自分の人生を歩むことができなくなって

しまいます。

現実逃避が過ぎると、それだけ自分の心は守ることができますが

主体性はなくなり、過剰な自己防衛だけが残ります。

自分を守るためだけに、自分の優位性を保つためだけに

他人を貶め傷つける、他人をこき下ろすしかなくなってしまいます。

 

これは自己愛性人格障害者だけでなく、

ターゲットや被害者気質の人間も知っておかなくては

ならないことです。

 

モラハラ被害者というのは、「モラルハラスメント」という

複雑な虐待行為をはっきりと「虐待である」「そこに愛はない」

と認識できません。

 

どれだけ熾烈なものであっても、どれだけ長い期間であっても、

「そういう現実」を受け止めることができずに、

「なんとか幸せになっている未来」だけが根拠もなく

いつか来ると信じたり、耐えるしかなかったりして

現実を見ようとしない傾向にあるのです。

 

しかし、それは現実を見ないようにしたほうが

「自分(の心)にとって何らかの利益がある」からこそ

そうしているのですから、

逃げられない自分を必要以上に責めるというのも一種、

自分を罰することで、精神的安楽を得ようとするという

心理防衛でしかありません。

 

ターゲットもまた、

モラルハラスメントを受けていくことによって

もともとある心理防衛の強さが遺憾なく

発揮されて、がんじがらめになっていきます。

しかし逃げたいと思っても、自己愛性人格障害者から

離れること自体も、苦しみを伴うからこそ

余計にがんじがらめになるのです。

 

「逃げたい」という気持ちも「逃げられない(逃げたくない)」

という気持ちもどちらもあっておかしくはありません。

それが被害者気質そのものだからです。

逃げたいという気持ちは、これがただのモラハラである、

と自分の中で決定づける「現実」を見る心であり、

 

逃げられないという気持ちは「その現実を見たくない、

愛しているし愛されているけどたまたまこじれて

いるのだと信じたい」という現実を都合よく見たい

心でもあります。

そこには、「ただのモラハラ」と認定するのは

自分の心が危うくなるほど、愛に飢えていて愛を欲しなければ

ならない原因がターゲットの過去にある、という事実があります。

 

被害者というのは「逃げたい」と思うのは

自己愛性人格障害者からみれば「甘え」である、

という評価に対して強烈に苦しみますし、

「逃げられない」と思うのは第三者にとって

「やっぱりDVを受ける側にも甘えがあるんだね」

という評価に対しても強烈に苦しみます。

 

「逃げられない」のはそれだけ、

ターゲットとなる人が愛の再獲得をしなくてはならない

状況にあるだけですから、

「DVを受ける側にも甘えがあるんだね」と言っている人も

ただ自分もそういう側面があるということを見ることができず、

実際そういう場面になると自分も逃げられない、といったことも

往々にしてあるのです。

 

それだけ、小さな現実逃避というものは身近にたくさんある

ということです。