なぜ、自己愛性人格障害者から離れられないのか

自己愛性人格障害者からターゲットが離れられないのは、

ターゲットにとって

自己愛性人格障害者からの「愛」を得るのが

人生最大のテーマといっても過言ではないからです。

 

そして、なぜ愛を得ることが人生最大のテーマなのか?

と問われると、

被害者気質の人からすると「え?愛って誰しもが

欲しいものではないの?何をそんなわかりきったことを

聞いているの?」

というような質問ですが、

確かに愛は誰しもが欲しいものではありますが、

被害者気質の人というのは「愛」を得るためには

手段を択ばない、といったようなところに特徴があります。

 

愛を得るためには、モラハラを受けようとも、

「そのモラハラはきっといつか治るのだ!」

「自分の愛や苦しみがきっとわかってもらえるはずだ!」と

思い込める精神があります。

普通の人には、これがありません(何を以て普通というのか、

というところはなんともいえませんが)。

モラハラをする人は、普通の人からすると

「どんなにキレイ事を言っても、モラハラをするような人」です。

ところがターゲット視点からみると、

「本当は心が繊細で傷つきやすくてかわいらしい一面のある人が、

その特性故に子供っぽい他人を挑発するような言葉で

他人をなじる癖があるだけ」というような人物像になります。

 

そういう視点でみたほうが、

最終的には「愛がある人」という要素は変わらないからです。

 

普通の人は、そこまでして愛を欲しがらないと書きましたが、

なぜならそもそも愛はすでに幼少期に獲得したことのある

人で、そういう人は今現在も愛というものを獲得し続けていると

いえるでしょう。

親という重要人物からです。

 

ところがその親が自分の納得のいくような「愛」を

与えてくれないような人だと、

その子供は大人になっても愛を獲得し続けないと

いけません。

その代理として恋人が存在するのです。

 

自己愛性人格障害者は、その親のように

「愛」を言いながらも自分に対して

とても愛情とは思えないような仕打ちをしてきます。

 

けれども言っていることは正しいように聞こえて、

まるで模範的な親のようです。

とても個性的で、自分があるようにみえます。

 

そういう親の愛を昔獲得できなかったトラウマを、

自己愛性人格障害者を使って、再現しようとしているのです。

 

それが何よりも自分の人生にとって重要ですから、

「モラハラ加害者から逃げる」というのは

「自分の愛を獲得できるチャンスから手を引く」

ということと同義になってしまいます。

 

それゆえに、すんなりと手を離せば

「本当にこれでよかったのか。

自分はとんでもない間違いを犯しているのではないか」

と強烈な不安に駆られるのはある意味当然とも

いえます。