暴力を「躾」と称する理由

暴力は躾とは異なるものですが、

では、どこからが躾でどこからが暴力なのか?

ということは誰も明確にすることはできません。

 

つまり、その暴力が果たして躾であるのか、

はたまた虐待であるのかは

誰も線引きできないということでもあり、

しかし暴力と躾は違うよね、とか

躾において暴力が必要になることもあるよね、とか

個々の判断において決められているのが実情です。

 

そしてメディアでも取り上げられていますが日本政府は

児童虐待防止法の改正案として「体罰の禁止」を掲げ、

来年4月の施行に向けて動いています。

 

ところで、民法には親権者による懲戒権(ちょうかいけん)

というのが認められています。

「親は監護及び教育に必要な範囲内で、

子を懲戒することができる」といったものなのですが、

民法では具体的に「どういった例」が懲戒に当たるのかを

示していません。

 

しかし新版注釈民法には、「懲戒のためには、

しかる・なぐる・ひねる・しばる・押し入れに入れる・

蔵に入れる・禁食せしめるなど適宜の手段を用いて

よいであろう」と、

なかなか物騒な具体例が書かれています。

明治時代なら普通にあり得そうですが、今はこんなことが

露呈すれば大騒ぎになりそうですね。

 

親にとっての子に対する懲戒権がなくなれば、

躾というものが成り立たないのでは?

といったような声も上がってきそうですが、

懲戒権が明記されていようと削除されていようと、

「体罰の禁止」が児童虐待防止法の改正案として

成立しようとしまいと、

虐待というものもなくなりません。

 

躾と称して暴力を行うのは、行っている者にとって

「暴力」というものが必要不可欠であり、

なおかつそれをどういう風に

「躾と称するか」は、どのような形でもとれるからです。

 

躾かどうかなど暴力を振るう側にとってはどうでもいいと

思われがちですが(実際はそうなのですが)、

自分のやっていることを正当化しなくてはすまないほどの

精神的強さがなかったり、相手がミスするとキレだすような

人だと、

いちいち「躾だ」と思い込むこと、またその理由を

決定的に明らかにしないと気がすみません。

 

虐待をする人間ほど「躾であった」ということを

主張します。それは、嘘でそういっているのではなく

本当にそう思い込んでいることも非常に多くあるのです。