「努力」だけでは人生どうにもならない

努力、というのは

青年期まではある程度役に立つ言葉ですが、

あるときから、努力だけではどうにもならないことも

あるということを悟らされる時期がきます。

 

というのも、

「このまま努力をし続けていると

自分のエネルギーが枯渇してしまう」

「努力だけでいくと、損をする」

と気づくからです。

 

それは、努力をした分だけ他人にその手柄を横取りされたり、

努力というものが実らなかったり、

それに見合った報酬が手に入らなかったり・・・

というところが大きいでしょう。

 

しかし、幼少期より、

「努力しているスタンスさえ見せていれば、

誰か重要な人物が自分を認めてくれた」

「そういう態度をとることで、

状況がマシになった」

というようなことを何度も何度も繰り返していると、

人は過剰な努力をしようとします。

 

努力すればその分返ってくるのが当たり前で、

状況がマシになるのが当たり前で、

そして「もっと、もっと」と努力を望まれれば

望まれるほどいくらでも忍耐できるといったような

状況の繰り返しで生きてきた人というのは、

確実に躓きます。

人の身体的エネルギーも精神的エネルギーも有限だからです。

 

心というのは形として表れていないので

非常に分かりにくいですが、

多くは「うつ」などの症状によって

精神的エネルギーが枯渇していることを

外界に表現します。

そうならないと自分の疲れに気が付かない、

周りにサインを出せない人間もいるのです。

 

努力しなさい、という親の言葉が

「自分の期待に見合うように努力しなさい」

「努力しないような子は自分の子供じゃない、

マトモな人間じゃない」といったような意味を持つと、

子供はとたんに努力に対して強迫的になります。

 

努力しなくてはならない、というのが刷り込まれてしまい、

努力以外の方法もあることを知ろうともしません。

 

それは親が潜在的に「子供の苦しむ姿が見たい」

「努力をしろというだけで立派な躾をしているようで

安心する」というような精神安定の材料としか

思っていない場合でも同様です。

 

それは努力をした分、

「親の満足」というような見返りがくることを

前提として努力するのですから、

努力をしても誰かの愛が得られなかったり承認欲求が

満たされないようだと

「努力が足りないのだ」と勘違いして

努力さえあればなんでもできるという思い込みが

個人を疲弊させる原因にもなります。

 

モラハラを受けるような人だと、

夫婦のためと思って努力し続けても

モラハラを受け続けるしか答えが出てきませんから、

そこで初めて「努力というものが報われないことも

あるのだ」と気づく人も多いでしょう。