自己愛性人格障害者の抱える矛盾

自己愛性人格障害者は矛盾だらけの存在です。

それは、

自己愛性人格障害者の

強すぎる劣等感と、

それを打ち消すための優越感によって

作り上げられます。

 

自分は生きている価値の無い、

ミスだらけの人間という劣等感。

これは大体、親などの絶対的存在から

植えつけられます。

大体、人などというのはミスだらけなのは

当たり前です。

一生のうちに何万個のミスを作り上げるでしょうか。

それは人間であり神でもなんでも

ないのですから当たり前なのです。

 

ところが自己愛性人格障害者というのは

自分がミスをしたなどと

考えてしまえば生きていけません。

ミスをするような人間は

生きていてはいけない、

と思い込んでいます。

 

ですから自分はミスのない

完璧な人間でないと生きていけないとも

思い込んでしまうのです。

なので自分のミスは隠そうとします。

自分はミスなどしない人間として

振るまわなくてはなりません。

しかし、それは現実的にはありえませんから、

そこですでに矛盾が生じてしまいます。

そして自分は人に攻撃をするような悪で

あってはいけませんから、

他人にいつでも配慮できる優しい自分で

いなくてはいけません。

しかし人は悪意のない発言でも

人を傷つける生き物ですし、

そもそも配慮したくないような場面、

配慮したくない相手というものが

存在することもあるでしょう。

 

しかし配慮している自分は

とにかく気苦労しているといいながら、

もっと自分に配慮しろと

自己愛性人格障害者は責め立てます。

自分は配慮できる優しい人間だと

いいながら、攻撃してしまうのです。

ここでも、矛盾が生じます。

自分は常に配慮してきているのだから

お前も自分に対して配慮すべきだと、

配慮の無い発言をしてしまいます。

 

どんなときでも

優しさを忘れないといいながら、

優しいはずの自己愛性人格障害者が

度々酷い言葉を使いながら

攻撃してきます。

そして常に被害者でないといけませんから、

被害者アピールはしつこく、

非常に力強く訴えます。

こんな被害を受けた、

加害してきた人間はこんなに酷い人間だ、

どれくらい長い間被害を受けてきたか、

ということを延々と話すのです。

被害を受けすぎて元気がない、

ということを元気に力強く訴えます。

ここでも矛盾が生じます。

 

そして相手は酷い人間だが

自分は有能で立派であるということを

主張せずにはいられません。

いかに自分が正しく、

相手が間違っていて、

自分が理不尽な被害を受けてきているのか

ということを世間に伝えなくては

気がすまないのです。

そのため、

自分は立派で謙虚なのだと

口にしてしまいます。

どれだけ立派な功績を残してきたか?

どれだけ理不尽な妨害を受けながらも

成績を上げてきたか?

それをしてきた自分自身はどれくらい立派な

人間か?

ということを、

立派で謙虚であるはずの自己愛性人格障害者は

大々的にアピールするのです。

 

このように、自己愛性人格障害者というのは

矛盾の中に生きる存在であり、

その矛盾に自己愛性人格障害者は

気づいていません。