愛情がないのに愛を語る

自己愛性人格障害者というのは

自分自身を愛にあふれた人間だと

思っています。

 

もちろん、自分は相手に対して

いつでも気遣っていて

相手に対して思いやりを持って

実際にそのとおりに行動していると

思い込めるので、

 

それは愛情であるとも

思い込みやすいのですね。

 

ただ実際、それは自分の束縛したい欲や

相手のプライバシーを気にせずに

独占したい欲、

 

自分はちゃんと他人にいつでも

配慮しているのに周りは誰も配慮してくれない、

といった被害者の顔を持つための

詭弁に過ぎません。

 

なぜ自己愛性人格障害者が

愛情深い人間として振舞わなければ

ならないか?というところですが、

自分は万能で、

自分は愛にあふれていて

言葉だけマトモで心根は腐っている

周りとは違うのだ、という格差を

生むためでもあります。

 

そして愛情深い自分が、

愛情深いゆえにそれを感謝どころか利用してくる

冷たい周りに振り回される

被害者である・・・ということを主張したいがためです。

 

そして自分の束縛欲を

愛情であるという言葉に置き換えることで、

正当化したいだけですね。

 

これらの理由から、

自己愛性人格障害者というのは

愛情が本当はないのに

愛を語るはめになっていきます。

 

自己愛性人格障害者というのは、

それだけ相手を愛している、

お前だけが必要だと

言葉では表現することが出来るのです。

 

いつでもお前のことを考えている、

自分がお前の味方をする、

いつでもお前のことを思っている・・・

 

という「口だけ」というのが

自己愛性人格障害者の特徴でもありますから、

 

語っている愛が壮大なものにしては、

それと比較すると実際の行動は

まったく追いついていないどころか

愛している相手にする仕打ちではない・・・・

といったようなことが多々見受けられます。