自己愛性人格障害者の考える「恥」とは

自己愛性人格障害者にとって、

恥というのは「ミス」とか

「簡単なことが分からない自分」であったりします。

 

つまり、分からないことも恥だし

それを分からないと自覚してしまうことも

恥ということになります。

厚顔無恥、という言葉がありますが、

被害者にとって自己愛性人格障害者というのは

この「厚顔無恥」という言葉が非常に

当てはまると感じる場面が多いです。

 

なぜなら自分は世界一有能であり、輝かしい功績を残していて、

類を見ないほどの天才であり、

思いやりにあふれる優しい人間であるかのように

自分のことを言いますが、

そうやって自分を見事な人間だと

声を上げていっているさまも、

実際には功績どころか仕事の業績が上がっているのか

どうかも分からない、生活費さえケチり、

思いやりのかけらもない言葉を投げかける

自己愛性人格障害者の実際と理想の差も

「恥」に感じる部分がとても多いからです。

 

第三者から見ても、

そんな風に大々的に自分を褒め称えるような

言葉を述べる人などほとんどいませんから、

聞いているこちらが恥ずかしいような

自画自賛をやりはじめると

違和感しか感じないでしょう。

世間の大部分はそう感じるはずです。

 

自己愛性人格障害者が他の自己愛性人格障害者の

そういう言葉を聞いていても、

「なんだこいつは?」と思うだけでしょう。

 

ところが自己愛性人格障害者にとっての

「自分の感じる恥」はそうではありません。

自己愛性人格障害者にとっての恥は、

「分からない」と言うことが恥であり、

完璧でない自分が恥であり、

分からない自分自身が恥なのです。

 

しかし、普通に考えて、

人というのは世の中のことの

大半を知りません。

子供を生んだこともない人間は

陣痛がどんなものか陣痛が来たら

病院に行ってどういう手続きを

とればいいのか聞かなくてはなりません。

市役所にいって初めての手続きをするなら

市役所の職員に聞かなくてはなりません。

初めて行う仕事で仕事の内容が分からなかったら

上司に聞かなくてはなりません。

しかし、自己愛性人格障害者にとって

分からないということは恥なのです。

 

それが簡単であればあるほど、

簡単だと思っていればいるほど、

実際は手間がかかったり

複雑な作業が必要だったりして、

それがストレスになればなるほど、

そんなことをしている自分が恥に感じて

しまいます。

ですから、

被害者が「ここが分からなくて」と

素直に人に聞いたり無知でいることに

何の疑問も抱いていない、怖がってもいない

姿が理解できません。

 

自己愛性人格障害者にとって、

被害者のそんな姿こそ「厚顔無恥」で

あるかのように感じてしまいます。

しかし人は無知でいるのが当たり前なのです。

ただ自己愛性人格障害者は

他人に聞くのが怖かったりすると、

極端にそういう場を避けたり、

無知だといわれないように徹底的に

勉強してその場に臨もうとします。

まるでいつでも合格か不合格か

判定されるための試験会場に行くかのように。

 

それでも知識不足だといわれたり間違いを

指摘されたら、

知識不足だと言った方が完璧である自分を

不完全扱いする悪者なのです。