偏見を持ちやすい自己愛性人格障害者

自己愛性人格障害者は

偏見を持ちやすいといえます。

あまりにも人に対して極端な意見を

持ちやすいので、

どちらかというと差別、という表現のほうが

近いこともあります。

 

なぜ偏見を持ちやすいか?というと、

そもそも自己愛性人格障害者にとっては

自分が優位に立てる場面、

相手を貶められる場面があると

反応せずにはいられません。

ですから、偏見が持てる、

相手を蔑めるような場面を

見過ごすことができないのです。

 

自己愛性人格障害者にとって

それは偏見というより、

紛れもない事実として

判断されます。

 

その偏見はただの自分の色眼鏡で

見たその人である、

ということを理解しているのが

当然ですが、

自分がただの色眼鏡で見ているだけ、

ということも理解できません。

 

自己愛性人格障害者がいったん偏見を持つと、

その偏見は事実として捉えられるのです。

自己愛性人格障害者は嘘をつきやすいのですが、

「偏見」というのは非常に便利で、

真実でなくてもさもそれが事実であるかのように

表現できます。

 

自己愛性人格障害者が、

誰かを「陰湿だと思いたい」場合には、

「あいつはああいうミスをしていた。

他のやつに迷惑がかかった。

きっとわざとだ」とか、

「自分としゃべるときだけ声が小さく

聞こえる。聞き取れなくしてこちらの

ミスを誘うための算段だ」

とまで言うことができます。

 

たとえば身体障害者だったり

知的障害者全体の場合は、

それだけでも「社会にはいらない存在」

としての偏見を持つこともあります。

反動形成として

障害者に非常に優しく接する場合も

あるのですが、

それでも根本的に

「社会に邪魔な存在」として

偏見を持っている場合や

それを実際に口に出す場合が

非常に多いです。

 

たとえばやまゆり園の殺傷事件の加害者である

植松聖容疑者も、

そういう偏見が真実だと信じ込み

自分が救世主のつもりで

事件を起こしています。

自分が正しく、優位に立つためには

貶めるものはなんでも貶め、

なんでも蔑む。

そこから抜け出せないのです。

 

そういう「偏見」というのは

自己愛性人格障害者が忌々しいとか

面倒ごとを持ち込んでくる、

気に食わないような相手を

「グループ分け」するのに

非常に有効で、

ターゲットに対しても

「そういう趣味をもってるやつって

総じて根暗だよね」とか

「そういう仕事に就いているやつって

絶対こういう考えを持っているよね」と、

その個人を「悪」とか「酷い人間」として

みなすためにはそういう偏見というものが

自己愛性人格障害者の武器にもなります。