いちいち燃料を投下しないことがコツ

自己愛性人格障害者というのは

燃料があればあるほど燃え上がります。

 

普通の人というのは、

燃料があろうとなかろうと、

ある程度燃えると人間の限界というものが

ありますから、

途中であきらめがちです。

 

「戦い続ける」というのは

それだけ強い精神力と

体力、怒り、執念というものが必要で、

 

普通の人には

「怒り続ける」というのは

とにかく限度があるものです。

 

それは、普通の人が怒りをおぼえたり

それを表出すると、

表出した相手への罪悪感があったり

自責の念が生まれたり・・・

といったことから、

どんどん行動をセーブするようになったり、

攻撃性を外に出すことで

自分の思いがある程度満たされた、

と自分の心理機能が判断するからです。

 

ところが自己愛性人格障害者というのは

罪悪感が生まれたり、

自責の念が生まれたり・・・

ということがもちろん、ありません。

 

なぜなら自己愛性人格障害者は

自分のせいだと思わないために

すべてを相手の責任として

捉え、攻撃するからですね。

 

そこに罪悪感というものが

入る隙間がないのです。

むしろ、罪悪感を感じないようにするために

相手がすべて悪いのだと

思い込もうとする作業なのですから。

 

被害者も最初は

そういうバチバチの闘争を

出来ることもあるのですが、

どんどん自己愛性人格障害者の

怒りや衝動の強さ、持続時間というものが

ケタ外れであるということに気がつき、

 

被害者は少しずつ

エネルギーを消費しないように

自己愛性人格障害者と戦うことを

諦めていきます。

 

ところが

自己愛性人格障害者に対する恨みは

変わっていません、

むしろ積もり積もっている場合が多いですから、

被害者もそういう鬱憤を晴らす場所さえあれば

晴らしたいわけです。

一度ターゲットになってしまったら

あとは自己愛性人格障害者がしつこく

被害者を束縛し監視するので、

その機会がないだけで、

被害者にも負のエネルギーが大きく

渦巻いています。

 

被害者が水を得た魚のように

生き生きと自己愛性人格障害者を

非難できるのは

自己愛性人格障害者から逃れようとしているときで、

物理的にも精神的にも離れていますから、

 

ここぞとばかりに

自己愛性人格障害者に対して

怒りを買うような言葉をわざと放ったり

これまでの恨み、というような感じで

ひたすらと今までの怒りをぶつける、

というようなことがあります。

 

しかし自己愛性人格障害者にとって

それはただの燃料でしかなく、

自己愛性人格障害者が「傷ついた」

と言う事にはなりません。

 

被害者は何とかして

自己愛性人格障害者に反省して欲しい。

傷ついてほしい、

そして自分がどれだけ傷ついてきたか

分かって思い知ってほしい・・・のですが、

 

それは徒労に終わるでしょう。

 

被害者は、

自己愛性人格障害者が「無敵」であることを

よくわかっているはずです。

なぜなら自己愛性人格障害者は自分につくはずの傷を

すべて「怒り」「相手を攻撃するための正当性」に

変換できるのですから。

 

そうなると、たとえば被害者が実家に

逃げていた場合など

今まで離れていたはずの物理的な

距離を自己愛性人格障害者自身が怒りを

エネルギーにして一気に縮めてきて、

 

被害者自身が結局危害を加えられる

要因を作ることにもなりかねないのです。

 

いちいち自己愛性人格障害者が

怒り、自分は正義だと思い込めるような

材料を被害者が放り込んでも

どうしようもありません。