自己愛性人格障害者の虚しさ

彼らはしばしば生きることの

虚しさを訴えることがあります。

 

基本的な流れとしては「誰しも自分を理解してくれないし

理解しようとしてもくれないから」

「最愛のパートナーであるはずの人間さえも

自らの苦悩と混乱を分かち合う姿勢をとっては

くれないから」

と被害妄想的に、かつ周りが自分に辛い思いをさせて

なおかつほったらかしている加害者なのだ、

ということを確実に伝えようとしてきます。

 

ところが、そういう被害的な意味でなくても、

自己愛性人格障害者は虚しさを訴えることがあります。

 

「自分の人生は、楽しむか空虚しかない」

「今日一日が最高の形で終わらなければ無駄であり、

虚しい気分にしかならない」

「なんのために生きているか分からない」、

といったような具合で。

 

その感情は間違いなく、

自己愛性人格障害者が抱いている自分の人生に対する

評価に他なりません。

 

0か100か、といった気質が現れている

表現でもありますが、

「生きる価値というものが一日に見出せなくては、

虚しい。なんの意味もない」。

という感覚に襲われるのです。

 

しかし、私たちの日常で、そんな一日になる保証というのは

どこにもありません。

それは、自己愛性人格障害者の

「ちょっとしたイレギュラーさえも、許容できない・

したくない(精神的な体力を削れない)」

という現状ゆえのものであるということと、

 

一日のうち一瞬でも楽しくない、価値を見出せない状態だったら、

それは無価値と一緒だ。

そんな虚しい人生なら生きていないほうがいい。

という白黒思考故に起こる空虚感、虚無感でもあります。

 

しかし自己愛性人格障害者というのは、

その虚しさが自分自身に対する限りない肯定感の低さから

来るものだということを

うすうす感づいています。

自分が無価値である、ということを教え込まれてきたため

その評価に対して自動的に反抗はするものの、

自己愛性人格障害者が何より、自分に対する評価を

低くしているのです。

 

なので、自動的に優越感に浸ってしまう。

必死に、自分はそういう人間ではないと自分と

世の中に叫びながら生き続けていかなくてはならない。

 

それこそが自己愛性人格障害者を真に

「虚しい人生」にしている元凶なのです。