「邪悪な人間」とはいったい何なのか

今回は「邪悪とは何か」ということをテーマに

述べていきたいと思います。

 

邪悪というものの定義は非常に曖昧です。

辞書を引いてみると「心がねじ曲がって悪いこと」と

あります。

 

ところが、人間世界でいう邪悪というものは

こういう短い言葉に集約されるものではない、というのが

個人的に感じるところです。

 

たとえば、凶悪犯は一人残らず邪悪なのか?

では、凶悪というのは一体どこからが凶悪で

どこからが凶悪ではないのか?

みな、いかにも悪事を働きそうな顔つきをしているのか?

人を騙したり何人も殺したりすれば凶悪性が高く、

盗みなら凶悪性は低いのか?

それとも、動機が不純であればより邪悪性が高くなるのか。

純粋に正義のために犯罪を犯すというパラドックスに陥って

いるのであれば、それは邪悪性が低いことになりえるのか。

 

それは誰にも決められないはずですし、

逮捕歴があろうとなかろうと、凶悪という存在はこの世にある、

ということは例えば頻回にこのサイトを見に来ている人で

言うならば自己愛性人格障害者のモラハラの被害者、

であれば容易に想像がつくことでしょう。

 

自己愛性人格障害者の特徴で最も気にされることが

「顔つき」です。

自己愛性人格障害者を一目で理解するには?

どういう顔つきをしているのか?というところは、

自己愛性人格障害者だけでなくとも“そういうもの”に

引っかかりたくない人達が気にするところです。

 

ところが、そういうことがWeb上で検索されること自体、

「人は見た目ではわからないから、そういう情報が知りたい」

ということが分かります。

そう、一見しただけではわかりません。

少し話しただけでもわかりません。

 

しばらく関係性を深めるうちに、なんとなく違和感をもち、

彼らの言動から、ああ、この人は何か自分の正当性を確保するために

誰かを犠牲にしようとしている・・・ということを

徐々に理解するしかないのです。

 

自己愛性人格障害者や境界性人格障害者というのは、

邪悪の塊でもありますが、

この世の中に自然と溶け込んでいる、一見普通の人達です。

 

職業も一定していません。警察官、教師、プログラマー、バイヤー、

清掃員、レストランの店員、あるいは無職の人間もいるでしょう。

 

別に彼らは凶悪な顔をしているわけでもなければ

廃れた生活をしているわけでもありません。

 

 

そして邪悪とは何かを考えるとき、欠かせないのが

「それを考えている人間が、あるていど健全な発達を経てきているか」

ということです。

 

一通りの発達過程を経て、あるていど良心があり、

自分と他人の違いが明確に理解できること。

 

自分のない人間というのは自分がないことに対して

劣等感を抱き、それを覆い隠すために偽りの自分を演じ、

それを意図しようとしまいと暴こうとする人間を悪とします。

 

あるいは攻撃性が高まり、偽りの自分を演じる以前に

「相手が悪だ」と決めつけ、怒り心頭になりその怒りを

緩めることのないまま容赦なく相手を攻撃します。

 

そこに、現実とのすり合わせや攻撃に対する罪悪感、

良心、愛というものは存在しません。

そうなると、そういう人達にとっては周りのものみんなが

「邪悪な存在」であり、邪悪の定義はゆがめられます。

 

このサイトで紹介する自己愛性人格障害者の特徴というのは、

常にその特徴が全面に出てくるわけでもありません。

その特徴というのは「自分が正当でありたい」「優位に立ちたい」

「弱い立場でありたくない」というモラハラ思考が外界へと

表出されるときに起こるものなのですから、

それ以外の場面というのはいたって普通の会社員であったり、

寡黙な父親であったり、一見社交的な母親であったりするわけです。

 

どうしてこんな邪悪な人間に対して

さっさと逃げ出さないのだ?なぜまんまと支配されて

しまうのだ?というような感情を

見る人に与えてしまうのは、

それらの特徴を専門書やこのようなサイトで集約して

載せているからでしょう。

 

彼らが被っている仮面は、まさに「普通のひと」

そのものです。

 

 

 

では、それくらい身近な事例でありながら、

けれど邪悪性が高い人達が間違いなく存在しているというのが

答えではあるのですが、

 

では邪悪とは、邪悪性が高いとはそもそも一体何なのか?

というところに対する言及が一つあるとするならば、

「自分が正義である・自分が正当であるという名分を保つためならば、

他の者を際限なく犠牲にできる」

というところにあります。

 

際限なく、というというのは

時間的にも、量的にも、質的にもという意味です。

どれくらいの長い時間、どれくらい頻回の嘘偽り、

どれくらい根深い犠牲でも払える、ということです。

 

少しでも自分が正当ではないという事実が出てくるかもしれない?

出現するかもしれない。あるいは、そういうことを

言ってくる輩がいるかもしれない。

そういう可能性に対して、長い時間・・・

かなり多くの場合は人生をかけてでも、子供の人生をつぶしてでも、

配偶者の人生を奪いとってでも

自らが正しいのだということを証明するためだけに犠牲に

する、ということでもあります。

 

搾取される者が配偶者ならばその配偶者は生ける屍として

人生を過ごしていかなくてはなりませんし、

搾取される者が子供であるならば子供はいずれ

問題行動を起こし、次は搾取する側としての

成長を遂げるかもしれません。

 

つまり邪悪というものは連鎖しうるものである、

ということです。

 

「平気でうそをつく人たち 虚偽と邪悪の心理学」

という本があります。邪悪ということが主題に

上げられるのですが、この書物では「その邪悪とは具体的に何か」

といったところに言及しています。

米国の精神科医(M・スコット・ペック)が著者となっている

洋書なのですが、

堅苦しいマニュアルのような書き方は一切しておらず、

事例を交えながら邪悪性とはどういう特徴を持っているのか

ということが分かります。

自己愛性人格障害者について他者にうまく説明できない、という人も

事例を見ればこういう特徴が言いたかったのだと

納得するはずです。

 

この本の中で登場する患者たち、そして

「患者とされた者」の周りにいる、本当の意味で精神療法を

受けたほうがいいような邪悪な者たちとのやりとりを

事細かに記しています。

最近読んだ自己愛性パーソナリティ障害者や

パーソナリティ障害に言及した本の中では最も具体的に、

且つ明解に記した良書だと考えています。

 

特に事例の部分では、そうだ、このようにして、

巧妙に嘘偽りを述べていき、真実がゆがめられるのだ

・・・ということが理解できるはずです

(どちらかというとそれ以外の部分では著者の深い考察が

入っていて、独り言を聞いているような気分にもなりますが)。

 

またこの本では邪悪性ということに着目していますが、

邪悪=病気(精神的な病)である、ということも

述べています。

 

つまり、邪悪性の高さは精神的な弱さ、脆さの程度であると

示す見解もあるということです。

 

 

また、主な特徴として

「多くの場合、きわめ隠微なかたちをとる定常的な破壊的、責任転嫁的行動」

「通常は表面に現れないが批判その他のかたちでくわえられる自己愛の損傷に

たいして過剰な拒否反応を示す」

「立派な体面や自己像に関心を抱く。一方ではこれが憎しみの感情

あるいは報復的動機を隠す見せかけにも貢献している」

「知的な偏屈性」

というものも本書では挙げています。

 

邪悪性が高い、というのは陳腐な表現かもしれませんが

これらの特徴が顕著に表れるのもその個人の弱さとも

いえるでしょう。

 

そしてそのような被害者となった人間の、心の反応と

実際に示す反応の重要性。

弱い者たちの身代わりになり、責任を代わりに負い、

負担を強いられて生きてきた者。

自己愛性人格障害者のモラハラの長年受けてきた人々も、

同様に後遺症らしきものを抱えて生きていきます。

それらは自己愛性人格障害者から解放されてもなお存在するのは

幾分か不便に感じる心の檻のようなものですが、

その檻こそがモラハラから自分自身を守ってきた

盾そのものでもあるでしょう。

 

元夫が自己愛性人格障害者だったならば、

「男なんて」と卑屈になることもあるでしょう。

人と接するときに、自分が変なことをしていないか

気になって言葉が出てこないという人もいるでしょう。

もうモラハラ加害者はそばにいないのに、

動悸や不安がいまだに襲ってくる、という被害者も

いるかもしれません。

 

それはその人の心を守るために重要な反応ではありますが、

「その人自身」を表すものではありません。

被害者は、それを知っておくことが邪悪な者たちからの

加害を最小限に抑える一つの御守りにもなります。

 

「自分は臆病だ」というのは、もともと気弱な人が、

自己愛性人格障害者や搾取する者たちから

その意識を植え付けられて、

臆病な自分が本当の自分なのだと思い込まされているだけです。

それは、自分にとって大事な防御壁であるという、

ただそれだけの話であり、臆病な自分自身が個人を

食いつぶそうとしているわけではありません。

 

逆にいえば、それは自然な防御反応であり、

それらを無理やり取り除こうとするのは

むしろ被害者自身の心を身ぐるみはがそうとしてしまう

行為でもあります。

 

悪、とは特別なことであるというのは

危険な思想でもあります。悪というものが弱さと

関連している以上、間違いなくこの世には

多くの悪が存在します。

ところがその悪というのは上記の通り巧妙に隠され、

時に愛を装ったり(あなたのためにやっている)、

正義や見かけの良さ(これが正しいのだから仕方ない)で

紛らわされます。

 

そして、誰もがあからさまな悪があると信じ、

凶悪犯はみな「お前を意図的に傷つけてやる」というような

凶悪性を持っていると信じがちです。

邪悪性とは、「人を傷つけようとなんかしていない」と

装うことをしなければ生きていけない自分の攻撃性や欠陥さえ

認識できない弱い人間が、

自分を守るためだけに人を犠牲にし続けることができる

その精神そのものです。

 

 

被害者が心を過剰に防衛しなくてはならなくなったり、

がんじがらめの状態を招いているのは、

「なんでもない世界」で出会った、普通の仮面をかぶった

邪悪な者たちなのですが、当の加害者というものは自分の欠陥の

責任を引き受けることができない故、その

共感性の欠如、そして共感性が欠如していることに対して

なんの危機感も抱いていないような、

そういう様子さえみせます。

  

文庫 平気でうそをつく人たち 虚偽と邪悪の心理学 (草思社文庫)

文庫 平気でうそをつく人たち 虚偽と邪悪の心理学 (草思社文庫)