社会のほうが間違っている

もし、

自分が社会から孤立してしまったら

その人は何を思うでしょうか。

別に、社会のほうが間違っているんだから!

と考えるかもしれません。

 

ああすればよかった、こうすればよかった、

ああしなきゃよかったと

後悔の念にさらされるかもしれません。

 

前者もある意味間違ってはいません。

それは自分の心を守るために非常に

大切なことで、

「どうせ社会のほうがおかしいんだって」

と思い込むことで自分の心を守ろうとするのは

当然といえます。

 

それだけ、社会の力というのは強大で、

社会から「あなた間違っているよ」と

言われるということは苦痛であり

大きなストレスとなりうるということです。

 

自己愛性人格障害者の場合も同じく、

それに耐えうるストレス耐性はありませんから、

「いや、社会のほうが間違っているに

決まっている」という

考えにいたるでしょう。

いくら世渡り上手の自己愛性人格障害者でも、

人格障害者である限りは

その落とし穴にいつでもはまる危険性は

持ち合わせているわけです。

 

それでも自己愛性人格障害者ゆえに、

「社会のほうが間違っていて、

自分のほうが正しい」という

その選択肢しか選び取ることが出来ません。

 

自己愛性人格障害者は、

いくら社会から「受け入れられない」という

フィードバックがあったとしても、

それを素直に受け取る力を持ち合わせていません。

ですから、

社会から異分子扱いされたとしても、

自分は正しくて社会のほうが間違っている・・・という

道しか選ぶことができないのです。

 

そして自己愛性人格障害者の危ないところは、

社会のほうが間違っている、

という証拠を残したり

それを知らしめるためなら

犯罪さえ厭わないということです。

 

自己愛性人格障害者にルールというものは

関係ありません。

自分が間違っていると思ったら

間違っているし、

正しいと思えば犯罪者でも正しくなるのです。

 

それが自己愛性人格障害というものです。

 

ですから、

自分が正しく、社会が間違っていると

証明するためにはどうすればいいか?

ということを必死で探すようになるでしょう。

 

その過程で人を傷つけようが、

他人に危害を加えようが、

誰かを蹴落とそうが、

自己愛性人格障害者にとってはどうでもいいことです。

 

自分が間違っているのかもしれないという

危機的状況に陥れた社会こそが悪で、

その悪がどうなろうと、

自分は正義なのだからそれを貫くべきである・・・

という考えしかもてないのですから。

 

ですから100対1になったとしても、

自己愛性人格障害者というのは自分の考えが

間違っているのでは?

と内省することは絶対にできないのです。