自己愛性人格障害者の本音

自己愛性人格障害者の本音というのは、

自己愛性人格障害者に関する情報が

書かれているサイトにそのまま書いてあります。

責任を負いたくない。

誰かのせいにしたい。

自分にプレッシャーがかかってほしくない。

すべて思い通りになってほしいし

そうなるべきである。

 

むしろそうならないほうがおかしい。

 

世の中に自分ほど優れている人間はいない、

それどころか愚鈍な人間しかいない。

相手は独自の考えを持つべきでなく、

自分と同じ存在であり

自我を持ってもらってはこまる。

自由でいてほしくはない。

 

それが自己愛性人格障害者の

本音です。

 

その本音をもとに、

自己愛性人格障害者は行動します。

しかしその本音を持っているということを

自己愛性人格障害者自身が

認識することは一生ありません。

逆にいうとその本音を

認識できないからこそ

自己愛性人格障害者なのです。

「自分と同じ存在なのであり、

独自の考えを持ってもらっては困る(許せない)」

「自由でいてもらっては困る(許せない)」

ということを自覚できないので、

自分はまるでそんなことは考えていない、

というように振る舞います。

まるで自分は相手をいつでも尊重していて

相手の自由を認めている、

もっといえば自由を許しすぎている、

自由にさせすぎているとまで

考えているでしょう。

自分は寛容すぎる、とまで

考える自己愛性人格障害者もいます。

 

実際に「自由に動いていいからね」

「自分のことは気にしなくていいからね」

と口にだす自己愛性人格障害者もいます。

自己愛性人格障害者はそのとき、自分を

「寛容な自分」として認識しますが、

本音はまったく別のところにあります。

「自由にするなんてありえない」

「相手には自由になる権利なんかない」

「相手を自由になんてしたら

どうなるか分からない」

「何もかも把握していないと気がすまない」

というのが、自己愛性人格障害者の本音です。

ですから、

「自由にしていいんだからね」

という寛容さを見せながら、

実際はとにかく執拗に相手の行動を

把握しようとしたり、

相手の自由な時間に楽しんでいる様子を

見せたりすると、

とんでもない怒りを見せることがあります。

 

そのうち、

「自由な時間」を持とうとする

ターゲットに対して

それ自体がおかしい、

自由な時間が欲しいと考えること自体が

間違っている、

という表現をし始めることさえあります。

「なぜお前はそんなに自由な時間を

欲しがるのだ?」

「そんなに遊びまわりたいのはなぜだ?」

「その程度の人間なんだな」

人が自由にしたいというのは当たり前の

反応です。

 

ターゲットは何も、

「遊びまわりたい」から自由にしたいと

言っているわけではありません。

しかし、自己愛性人格障害者はまるで

被害者が「自由を望むだらしない人間」であるという

レッテルを貼ろうとします。

たとえば結婚していたら

ある程度自由がなくなるのは当然ですが、

それを利用するのが自己愛性人格障害者です。

「結婚しているのにまったく落ち着かない人間」

「結婚相手がいるのに

異性と遊びまわろうとする

性にだらしのない人間」

という烙印を自己愛性人格障害者は

押そうとするでしょう。

 

ターゲットはモラルにうるさい人間が多いですから、

この自己愛性人格障害者の訴えを

「この人がいうことも一理あるな」と

考えてしまいやすいのです。

そして自己愛性人格障害者の

「ただ相手の自由を認めたくないだけ」

という人権無視の本音に気づかず、

自分から自由になることを捨てて

しまうこともあります。

 

言っている自己愛性人格障害者自身も、

「自分はそういうモラルは守るべきだと

思っている」

という本音を隠した感情しか

認識できないので、

相手から自由を奪うのに

本当はそんなモラルなどないから

自分は自由を求める、

という矛盾を抱えやすいのです。