特別扱いされたい

人間、誰しも自分を特別だと

思っています。

 

なぜならその人は一人しかいませんから

特別なのは当たり前で、そういう意味で自分を特別だとか大事にするのは当然ともいえます。

 

それが健全な自己愛といえます。

別に、自分はすばらしい学歴を

持ち合わせていなくても、

絵にかいたようなエリートでなくても、

誰かに人生を邪魔されている

被害者にならなくても、

 

自分をそれなりに特別だと思えますし、

場合によっては自分をその他大勢だとも

認識できますし、

自分自身を認められるわけです。

 

自己愛性人格障害者の

「特別扱い」を求めるというのは

それとは大きく異なっていて、

 

特別であるためには

特異な思想や大きな希望、

それに見合う高い学歴の自分や

立派な仕事に就いていること。

 

誰にたいしても愛に溢れているひと。

些細なミスさえしない、正確な人間。

 

そうでなければ、

自分で自分を特別扱いできません。

しかし、そういう特別な人間でなければ

この世に生きる資格はないとまで

思っています。

 

しかしすべての希望が叶うわけではありません。

だからこそ自己愛性人格障害者は

被害者として振る舞わなくては

ならなくなります。

 

自分の本当の能力はこんなものではなく、

もっと華々しく活躍しているはずだが、

それができていないのは

あのときああいう邪魔が入って

ああ選択せざるをえなかったからだ。

 

そういう格好で話を

進めていかなくてはなりません。

でないと、自分は特別でもなんでもないから、

この世に生きている意味はないということに

なってしまいます。

 

ですからこういう作業をしているとき、

被害者がうっかり

「でも、じゃあこのときこう選択してれば

よかったのでは?」

と言おうものなら

その作業を邪魔していることになるので、

 

「結局、それはいいわけで、

あなたは生きている価値のない

人間なんじゃないの?」

と言われているのと同じになります。

 

自己愛性人格障害者があまりにも

被害者面をして怒るので、

ただ意見をいっただけなのに、

それはそれで自己愛性人格障害者が

「喧嘩を売っているのか」

と次ぎは被害者に対して

怒り出す要因になるのです。