被害者は自己愛性人格障害者にとっての栄養素

被害者というのは

自己愛性人格障害者の自己愛を満たすための

行動を自然とします。

 

しかしこの行動を自然としなくなっても、

自己愛性人格障害者は勝手に

自己愛を満たし始めるのですが、

 

被害者というのは自分が相手にとって

必要な存在である、という考えから

なかなか逃れられない

(それを事実だと思い込むことは

被害者にとってとても重要な作業なのです)

ですから、

 

被害者は自己愛性人格障害者のために

尽くしてしまったり

自己愛性人格障害者が怒らないように

先回りして自己愛性人格障害者の

障害を取り除こうとすることも

よくあることでしょう。

 

被害者のそういう行動というのは、

自己愛性人格障害者にとって

大事な栄養素です。

 

なんのエネルギー源になるかというと、

自分がすばらしく、偉大で、有能であり、

相手のことをいつでも思いやれる

愛に満ち溢れた人間である。

 

と思い込むためのエネルギーです。

 

しかし先述したとおり、

別に自己愛性人格障害者というのは

被害者がいないと本当にその直後に

死んでしまうわけではありません。

 

別に被害者がいてもいなくても、

生きていくことは出来るわけです。

 

ほんのささいなきっかけでも、

自己愛性人格障害者は自分はすばらしい

人間なのだとナルシシズムに浸ることが

いつでも出来ますから。

 

しかし被害者がそばにいて、

自分のためにそういう行動をあたふたしながら

やるというのは、

とても気持ちがいいものです。

 

被害者が自己愛性人格障害者のために

働くのも、尽くすのも、

自分が被害者のために尽くしてやっている

気分になるのも、

支配欲を愛と勘違いして愛情を注いでいるように

感じるのも、

 

自己愛性人格障害者が生きていくために

手っ取り早い栄養素になるのです。

そして被害者というのは、

ただのその栄養素に過ぎません。