その課題は、自己愛性人格障害者のもの

被害者が自己愛性人格障害者に

執着すればするほど、

 

被害者は、

この状況をなんとかしてほしい(誰かに)、

願わくば自己愛性人格障害者本人に

気づいてもらい、

改善するまでがんばって欲しい・・・・

とそう思うでしょう。

 

しかし、被害者ががんばろうとしてもしなくても、

尽くそうと離れようと、

自己愛性人格障害者というのは

自己愛性人格障害から離れられません。

 

自己愛性人格障害というのはそういうものです。

 

しかし被害者というのは

その自己愛性人格障害者自身が乗り越えないといけない

課題を、とにかく自分自身が支えて一緒に

乗り越えられるものだと考えていることのほうが

圧倒的に多いのです。

 

しかし、自己愛性人格障害者というのは

乗り越える義務はありません。

それは無責任では?と言ってしまいそうですが

そうです、自己愛性人格障害者は無責任です。

 

そんな無責任であり本当の愛を知らない人間が、

愛してもいない被害者のために

自分の自己愛性人格障害を認め

自己愛性人格障害を乗り越える、

 

そんなことはありえません。

 

しかし、それでも被害者が信じたいのは、

「愛さえあれば何とかなるのでは?」

という、どこから得たかもしれない

根拠のない考え、

 

つまりそれが遂げられることで

今は本当の愛でなくても

いつかは本当の愛になり、

自己愛性人格障害者自身も自分のしていた過ちに

気づき、

自分を愛してくれるようになる・・・

と被害者自身が思い込みたい気持ちの

現れといえるでしょう。

 

しかしそのために

被害者というのは自己愛性人格障害者自身の課題を

自分が努力してかなえようとします。

 

それは、被害者の課題ではないのです。

あくまで治したいと思うかどうかは、

自己愛性人格障害者次第なのですから。