偽善者にしかなれない人たち

自己愛性人格障害者は

偽善者にしかなれません。

が、この世の中には

偽善者というのはたくさんいます。

なにも自己愛性人格障害者だけが

偽善者というわけではないのです。

 

ところが自己愛性人格障害者は、

本当の意味で善行をすることが

できないということになります。

 

善行をすることができないのに

善行しか出来ない人柄であると

周りにアピールすることをやめられない、

そんな障害ともいえます。

 

それはなぜなのでしょうか。

偽善というのは、

相手を想ってしているわけではないのに

まるで善行であるかのように振舞う

ということです。

自己愛性人格障害者の

「これは優しさからやっている」説教である、

という名目で行われるモラハラも、

一種の偽善になります。

自己愛性人格障害者がもし

被害者の送り迎えに執着したとして、

「あなたのことが心配だから」

といったとしても、

本来は自分が被害者の

行動を把握しておきたいから

送り迎えをしないと安心できないだけです。

 

ところが

自己愛性人格障害者の場合、

「自分がただ支配していたいだけ」

という本来の動機を自覚できないのです。

自己愛性人格障害者でなければ、

うっすらとは自覚できます。

特に偽善というのは

自分の本来やましいはずの動機を

隠すことが出来ますし、

なおかつその動機を隠して

「みなさんのためですよ」

という名目で動けるのですから、

自分が弱いことを隠したい人、

すばらしい自分を演出したいに

とっては一石二鳥です。

 

特に父親や母親が、

「子供のために」

「人様に迷惑をかけたらだめだから」と

こどものやることにいちいち干渉

し続けるのも、

「他人のため、こどものために

こうやっているんです」

という人に配慮しているような名目で、

自分のこどもを支配することが

できるからといえます。

結局自分のことしか

考えられていないことになります。

自己愛性人格障害者でない場合、

その「自分のことしか考えてなかったのでは?」

「これは偽善だったのでは?」

と気づく機会が得られることもあるのです。

 

しかし自己愛性人格障害者は

それが偽善だったと気づくときは

ありません。

むしろその偽善というものを

本当の善行だと考えて

生きていきますから、

その偽善こそが

自分をすばらしくしてくれる

エネルギーになるのです。

 

自分は人のためにやっていると

思い込むだけですむのですから、

それがいちいち本当に相手のためになっているのか、

ただの迷惑でないかどうかも

考えません。

 

ですから、

自己愛性人格障害者は

いつまで経っても偽善をやめられない、

その偽善をいくらでも人に

善行のようにアピールして

自己満足に浸る障害ともいえます。