相手を見る目が無かった?いいえ違います

自己愛性人格障害者の被害に遭って、

被害者が「相手を見る目がなかった!」と思うのは

自由ですが、

そう

思っているだけの時点で、

間違いなくその被害者は

新たなターゲットにされる可能性が非常に

高いといえるでしょう。

 

交際相手だったならまだしも、

結婚相手が自己愛性人格障害者だったなら

なおさらです。

 

「いや、見る目がなかっただけだ!

自分と結婚するまでは普通に優しい人間だった!」

という意見も聞かれるかもしれませんが、

 

それは自己愛性人格障害者の優しさや人柄を

自己愛性人格障害者の「言葉」で判断していたり

するだけだったりします。

 

なぜなら自己愛性人格障害者というのは

言葉だけは非常に立派で、

言葉だけで人を欺くことも

簡単に出来ます。

そして本当に欺いているつもりは

ありませんから、

自然とウソをつき、自然と仰々しく言ってしまい、

それがたまたま人を欺いていることになっていた、

くらいのものです。

 

自己愛性人格障害者にとってはむしろ

それは欺いていたうちには入りません。

 

それを、被害者がまんまと信じ込み、

自己愛性人格障害者に惹かれていっただけです。

 

では被害者がなぜ「まんまと」信じ込んだかというと、

被害者はそれを信じ込みたい性質がもともとあるわけです。

 

「それ」って何かっていうと、

自分が誰かに深く愛してもらいたくて、

そういう人が世の中にいると信じ込んでいて、

その人はとても魅力的な人間であると。

 

そもそもそういう感覚で生きていたり

するので、

自己愛性人格障害者が立派な思想でいたりすると

それをまんまと信じます。

愛の言葉を伝えてくれたら

喜んでひきつけられるでしょう。

あなたが必要だといわれたら

それもそのまま信じるでしょう。

 

被害者が何を見ているかというと、

その「言葉」を見ているだけなのです。

 

しかし被害者が今後みていかなくては

いけないのは、

「立派な思想を持っている」ことと、

「自分は立派な思想を持っていると

相手に知らせる」

ということは違うということです。

 

「愛している」ということと、

「実際に愛の言葉を伝え

やたらと責任を持つといってくる」

ということも違うということです。

人は、自分の思想を伝えるのは

なんらかの目的があるからです。

 

誰かがあなたに対して

何かを言ってきたなら、

その言葉をいうことで

何かを伝えたいということです。

誰かが

「もうこんな過去があったから

裏切られたくない、

酷い目にあったんだ、君なら分かってくれるよね」

と言ったら、

「悲しい過去」を伝えたいのではなく

「自分は被害者なんだぞ、わかっとけよ」

と言っているかもしれないのです。

 

自己愛性人格障害者の被害を受けたなら、

なぜ自分が被害者となったのか

考える必要があります。

 

しかしこれは自己愛性人格障害者の

自覚と一緒で感覚の問題ですから、

もう二度とこんな目に遭いたくない、

自分にきっとひきつけられた原因が

あったのだ、という感覚がない限りは

被害者体質からは抜け出せないでしょう。

 

見る目が無かったのではありません。

被害者が、自己愛性人格障害者に間違いなく

ひきつけられる特性を持っているのです。

 

ですから、被害者体質から抜け出さない限りは

「見る目ないね」というような相手に

再びひきつけられる可能性が高いでしょう。

いいや、今度こそ!とか

今度は真実の愛を、などという

曖昧なものにすがりつくのはやめましょう。

相手が何を考えているのかなんて

分かりっこないのですから、

その言葉と行動が一致している人を

見定めなくてはなりません。

 

自己愛性人格障害者は、言葉と行動が

一致していないのに、

「一致しなかった理由」をくどくどと

言い訳し説明する障害で、

被害者体質というのは「おかしいな」

と感じながらもまあうんうんそうだよね

(と言っておくのが愛情だよね)と

それを相手に譲歩し

無理やり納得する特性の持ち主です。

 

見る目はそもそも正しいのに、

愛情とか思いやりとか内助の功とか

そういう言葉ばかりを重視し被害者の心がその目を

曇らせているだけです。