自己愛性人格障害者のはじまりは強烈な劣等感

自己愛性人格障害者と劣等感というのは

切っても切り離せないくらいの

密接な関係にあります。

 

自己愛性人格障害者はよく、

その発言や態度から

「ものすごく自信満々」

厚顔無恥という言葉がぴったり」

「劣等感なんてまるでなさそう」

という言われようであることが多いのですが、

その正反対で、自己愛性人格障害者は

劣等感の塊です。

 

モラルハラスメントというのは、

その劣等感を隠すこと(自分自身から)、

その劣等感を抱いているという事実を

隠すこと(他人から)が目的なのですね。

ですから自己愛性人格障害者が何か特定のことに

固執して騒いでいたとして、

ターゲットはどんどんそのパターンを見抜いて、

こういうことが起こると自己愛性人格障害者は

腹を立てたりストレスをためるんだなあ・・・

ということがよくわかってくるのですが、

大体は理不尽な理由が非常に多いので、

 

自己愛性人格障害者はそれすら

「違う」

「そんな浅はかな理由だと思うな」

「いちいち推測するな」

と怒り出し、否定します。

 

つまり自己愛性人格障害というのは

その劣等感を抱いていることすら

否定せざるを得ないのですね。

自覚もできないということです。

 

わざと、「それは劣等感じゃない」と言っている

わけではなくて、

自己愛性人格障害者自身も

劣等感を抱いているとか責任が持てないとか

そういうことに気づかないようなシステムに

されてしまっているということです。

 

つまり、自己愛性人格障害者は、

自己愛性人格障害という障害に

支配されてしまっている

状態なのですね。

 

これだけでなく精神疾患というのは一様に

「病識」というものがなくて、

これは妄想じゃない現実だとか、

本当に脳に電波を直接送られているのだとか

考えを盗まれているのだとか、

自分が病気であるからそういう症状が出ているだけ、

というのは客観視できないのです。

 

自己愛性人格障害者も

そういう状態だと思っていてもらって

かまいません。

 

とある状況になったときに・・・たとえば

自分の楽しみにしていた番組が

急遽なくなったとか、

そういうパターンのときにいつも

腹をたて騒ぎ出し一気に不機嫌になり

何時間も怒ってターゲットを責め立てたとしても、

たかだかそれくらいのストレスや

思い通りにならなかったくらいの出来事で

怒りを噴出させてしまう自分、というのを

客観視できないのです。

 

それくらいのストレス耐性しかない自分、

というものに強い劣等感を抱いているからですね。

この劣等感から逃げ続けなくてはならないわけですから、

「いーやこの製作サイドの頭がおかしいのだ

せっかく人が楽しみにしていたのに

好きなテレビ番組さえ見る権利がないというのか」

「視聴者を大事にしろというのが

今の番組にはわからないのか」

「自分はテレビを楽しみたいだけなのに

お前はたかだかテレビが・・・とか

馬鹿にしているわけか」

と、そこで怒り狂う自分ではなく

怒り狂わせる相手がおかしいのだ、

という言い分を繰り広げなくてはなりません。

 

その劣等感ゆえに

余裕がなく、人を批判しなくてはならないのですが、

その劣等感というものに自己愛性人格障害者が

気づくことは出来ません。

自己愛性人格障害者の劣等感というのは、

そもそも自己愛性人格障害者が

自己愛性人格障害を持たなかった、まっさらのときから

自然と重要人物・・・多くは親に植え付けられ、

些細なミスでも

その親の逆鱗に触れたりすると

「ああ、自分がこういうミスをするから

よくないのだ」とどんどんミスする自分が

大罪人だというような考えを刷り込まれて

いくわけですね。

 

そうなると、劣等感を抱かざるをえないのですが、

大体その劣等感というものを改善させる術が

ないわけですから、

それでも劣等感まみれで生きていくことは

出来ませんから、

死なずに生きていくにはもう劣等感を

帳消しにするしかありません。

その劣等感を帳消しにするためには、

自分は些細なミスさえしない人間なのだと

考えなくてはなりません、

 

これが

「些細なミスさえしない有能で天才な自分」

というものを作り出してしまうのですね。

つまり、強すぎる劣等感を打ち消すために

圧倒的な優越感を得ることになります。

 

この圧倒的な優越感が前面に出ているからこそ、

自己愛性人格障害者を見ている人間は

「いや、劣等感まみれとか・・・・どこが?」

といいたくなってしまうのです。

しかしこの劣等感がなければ、

そんな壮大な自分を作り出して

優越感に浸る必要も本当はないということになります。