他人に無関心である

自己愛性人格障害者というのは

他人に無関心です。

なぜなら自己愛性人格障害者は

自己愛に執着するしかありません。

 

自己愛というものは

幼少期に満たされて初めて

自我が確立して、

自分と他人は別存在であるという

現実が理解できます。

自己愛が満たされて初めて

他人というものが尊重でき、

他者愛に発展するのです。

 

しかし自己愛性人格障害者の場合

自己愛に拘るしかありませんから

他者愛に発展する余力がないのです。

 

いつも、

すばらしい自分というものを幻想のなかで

作り上げて、

その幻想の中ですごしていくしか

ありません。

 

ですから、

他の人が本当はどう考えているか?

どういう人生を送っているのか?

今どういう感情なのか?

何が好きで、何が大切なのか?

ということにまったく興味がありません。

 

しかし、興味があるフリは出来るでしょう。

むしろすばらしい自分を演出しなくては

なりませんから、

相手の気持ちを尊重して、

相手の好みも嫌いなものもすべて知っていて、

相手のことは自分が一番よく

わかっているかのような振る舞いさえ

見せるでしょう。

 

しかし自己愛性人格障害者は

何もわかっていません。

理解することが出来ません。

なぜなら自己愛に拘るということは

相手の存在や相手の自由を

認めてはならないからです。

 

すべては自分のためにあり、

すべては思い通りにならなければ

ならないから、

相手の自由や気持ちなどを

尊重していてはそれが出来ないと

本気で思い込んでいます。

 

自分の自己愛を満たすことだけに

関心を持ち、

他者にも、そして等身大の自分にも

本当はまったく興味・関心が持てないのです。

 

また、自己愛性人格障害者の人生に

「他人」というのは登場しません。

すべて醜いほうの自分と同じような考えを持った

汚い人間ばかりの世界です。

 

それは結局他人ではなく、

自己愛性人格障害者が作り上げた

自分自身が何人もいる世界であるだけで、

現実の世界ではありません。

しかし自己愛性人格障害者は

そういう世界でしか生きることが出来ません。

ですから他人は存在しているものの、

他人という認識はあまりないといえます。

 

自分と近しい人間は

どれもこれも自分と同じ考えである、

自分自身であると思うということは、

いちいち他人がどういう人間であるとか

どういう思想を持っている、などといった

推測をする必要すらないのです。

 

自我がはっきりしないということは

他人と自分の境目もはっきりしていないと

いうことです。

自己愛性人格障害者はいつでもぼやけた存在で、

そのぼやけた存在でいる自分を何とかして

確かなものだと実感したいがために

いろいろと考えをめぐらせます。

 

自分は自分をしっかり持っているのだと、

自分に言い聞かせ、時にはなぜ自分が

自分をしっかり持っているのかということを

いくらでも理屈立ててならべ、

 

そうしないと生きていけないと

思っていますから、

それだけが人生ということになるのです。

他人にいちいち気を使ったり、

他人を尊重するなどといったことはそういう意味でも

意味のないことなのです。