自己愛性人格障害者への接し方

自己愛性人格障害者の特徴のおさらい

まず、自己愛性人格障害者というのは

自我の確立ができていない状態になります。

それゆえいつも劣等感、アイデンティティの危機

というものがつきまとい、その心の偏りに対してバランスをとるために

強い劣等感と強烈な優越感、無個性ゆえの「自分は個性的である」という

強い観念、

そして自身の脆弱さを補うゆえの誇大的自己、

というもので自分を成り立たせています。

 

そして、精神の脆弱さを持っているがゆえに

自らのわずかな罪や、ミスなどに対する罪悪感、ストレス、

自分の不完全さを認めることすら耐えることができません。

 

自己愛性人格障害者というのは、

そういう自分を回避するために自分を分裂(スプリッティング)させます。

分裂というのは「良い自分」と「悪い自分」を完全に引き離すことです。

そして、良い自分を自らが引き受け、悪い自分・・・すなわちミスをする

自分、あくどいことを考える自分、卑怯な自分、逃げようとする自分、

というものを自分から引き離し、身近な人間(配偶者や、交際相手や、友人や

家族、部下など)に投影します。

悪い自分やそれらが起こした罪やミス、責任も含めてすべて他人に

引き受けさせるのです。

これは、恋愛場面であろうとそうでなかろうと変わりません。

 

褒めない

自己愛性人格障害者というのは、

褒めれば自己肯定感が得られるわけではありません。

誉め言葉を受け取るのは、「自己愛的人格」ですので、

彼らを褒めた結果、彼らの万能感・自己肥大が強化されるだけになります。

つまり、彼らの病的性を身近な人間がただ認めるだけになるのです。

 

ただ、自己愛性人格障害者と結婚している場合など、

会話の流れにて褒めないといけない状況である場合だと

(あるいは自己愛性人格障害者が明らかにそれを

求めているような状況下だと)必然的に彼らを褒める必要が

出てくるでしょう。

そうしないと、不機嫌のスイッチを入れることになるか、

自己愛憤怒が起きる可能性があることを

被害者が何よりも知っているからです。

自己愛性人格障害者のモラハラが結果的にエスカレートして

いくのは、こういう機会を積み重ねていってどんどん

自己肥大化や万能感を高めていくから、というのも

一つの要因としてあります。

 

ただ、そういう状況下でもないのに

むやみやたらに自己愛性人格障害者の事を褒めるのは

おすすめしません。

自己愛性人格障害者の本来の人格は心の奥深くに

押し込められてしまっている、と考えたほうが

早いでしょう。

誰かが褒めてくれたからといって、安心して

その人格が顔を出すとかそういったこともまず

ありません。

 

自己愛性人格障害者にとって、「褒められる」という行為は

当然であるという認識であることも多いですし、

被害者に対して見下すことを隠さなくても

いいような段階では被害者に褒められることで

「お前がこちらに対して評価を下せる立場にでもなったつもりか」

「バカにしているのか」

「何か企んでいるんだろう」

というような曲解をすることにもなりかねません。

 

 

ストーカー化した自己愛性人格障害者への接し方

ところで、自己愛性人格障害者に対して

「過剰に褒めないように」というのは原則ですが、

例外が一つあります。

 

自己愛性人格障害者に付きまとわれている場合です。

ストーカー化する自己愛性人格障害者というのは、

例えば被害者が少しでも自分に対して攻撃してくるような

状態(あなたのこういうところが嫌いと伝える、

第三者に自己愛性人格障害者の悪口を言うなど)

だと一気に嫌がらせをしてくる可能性があります。

そういう場合は、「物理的に関われない状態にしてから」

連絡を取る機会があれば、褒めながら断る、というような

手段が有効な場合があります。

「あなたは自分には勿体なさすぎて、別れたい」とか

そういうことです。

馬鹿げているかもしれませんが、

自己愛性人格障害者というのは被害者の言葉というものに

隙はないかをとにかく見ているものです。

 

例えば「被害者に非がある」と考えることができるような

文句を被害者が一つでも言おうものなら、

徹底的に住所を調べ上げようとしたり、

執着したりしがちです。

 

被害者が「あなたのそういうところがずっと嫌いだった」

と言えば、

その言葉自体が執着する十分な言葉になり得ます。

自己愛性人格障害者自身は、前述のとおり自分のことを

「素晴らしい人格者で、賞賛される価値のある

欠陥がどこにもない人間」だと思っているので、

「何か誤解している」とか「お前こそ悪の化身だ」と

その発言を訂正させるため・逃げたこと自体が間違いだと

断定させることに躍起になりがちなのです。

 

そういう場合は褒めながらも逃げる、距離は

縮めることはできないと伝える、

という方法も一つの手段ではあります。

つまり、自己愛性人格障害者に付きまとわれる名分を

与えないということです。

 

それ以外のストーカー化した自己愛性人格障害者への

対処法としては、

物理的に距離を置き、とにかく感情的にならない、

特例があろうとも住所やその他連絡先は教えない、

ということです。

 

物理的な距離を置くというのは大原則です。

ストーカーというのはまず理性がきかない(理性を

きかせるほどの理由がどこにもない)と

思っておいてください。

ということは、住所さえ知っていればほぼ確実に

押し掛けてくることが予想されますし、

手紙を送りつけてくることもあります。

嫌がらせもあるでしょう。

 

どうしても電話やメールなどで連絡しなくてはならないとき、

感情的にならない、というのは少し語弊がありますが、

具体的にいうと「感情的になったとしても、

表に出してはいけない」という意味です。

被害者自身が考えた言葉で何かを伝えるよりも、

自己愛性人格障害者の言葉をそのまま反復させる(オウム返し)

のもいい方法です。

 

「ロボットにでもなったつもりか?」

「ふざけている」と挑発されたとしても、

そこで感情を出さないことが大事です。

挑発されているときは、「ロボット・・・?」「ふざけて・・・?」と

相手の言っていることがよくわからない、

といったような感じで返すのも有効でしょう。

 

挑発に乗ってしまえば、被害者の負けです。

自己愛性人格障害者は相手の攻撃を待っています。

そのための挑発です。

その挑発に乗ってしまうということは、

自己愛性人格障害者の術中にはまるということになります。

 

自己愛性人格障害者にはとにかく名分が必要になります。

攻撃するには名分がないといけないのです。

虐待するにも「躾である」、というのは子供がミスをしていて

人生を踏み外しそうだから、といったような

名分のもとで動いています。

その名分をできるだけ自分から与えないようにするのが

重要です(ここで言うのは挑発に乗らないという意味であって、

完全に名分を作らないというのは無理があります。

自己愛性人格障害者にとっては名分を作り出すことなど

造作もないことですから)。

 

 

拒否・否定をしない(必要な時以外)

自己愛性人格障害者を打ち負かそうと思って、

あるいは自分の正当性を守るために、

自己愛性人格障害者の言動を否定する被害者がいます。

 

「否定し続ければ、自分が本当に嫌な想いを

していることを理解してくれるはずだ」という想いで

そういう行動にでる被害者もいますが、

基本的には逆効果です。

 

いつ何時でも正当でなくてはならない自己愛性人格障害者にとって、

自分を否定してくる人間は成敗しなくてはならないという、

攻撃性を発散するためのいわば言い訳なのですが

彼らにとっては絶好の機会を得ます。

被害者は否定したくも喧嘩したくもなりますが、そのうち

そういう行為自体もただムダな労力を費やすだけであると

いうことに気が付きます。

自己愛性人格障害者が否定されたとき、その何倍もの時間・

執念を使って

「いかに自分が正当で、お前が間違っているか」ということを

示し続け、そこには強烈な人格否定と身体的・精神的な

破壊行為が伴うからです。

 

 

ただ、上記のように自己愛性人格障害者が

ストーカー化した場合というのは、

明確な拒否が必要です。

別に、ダメだしが必要とか人格否定をしろとかそういう意味ではなく、

「自分はもう一緒にはいられない・いたくないこと」

「付き合い・婚姻生活を続ける気はないこと」

ということはメールででもいいのではっきり伝える必要がある

ということです。

わざわざ強い口調で言う必要も語気を強める必要もなく、

ただただシンプルに、挑発的にならないように

拒否を示しましょう。

 

これは、自己愛性人格障害者に対してというよりは

警察などに相談に行くときに明確な拒否をしていないと

しっかりストーカー事案として対応してもらえない

可能性があるから、という意味で必要な過程です。

 

 

共感を得ようとしない

自己愛性人格障害者に苦しみを理解してもらおうとか、

自分が傷ついていることを知ってもらおうとしても

それは逆により傷を深めることに繋がります。

 

それは、彼らが共感という感情を持っていないからです。

共感、というのは相手の気持ちを予想する、同じ心情に

立つことを意味しますが、

他人が自然と行っている共感という心理が、

自己愛性人格障害者には起こりません。

というのも、自己愛性人格障害者は相手に「自分の悪い部分を投影する」

人達です。

その時点で他人は自分自身と明確な違いはなくなります。

ですから他人そのものの人格や感情は見ていないのです。

かといって、自分そのものを見ることもできません。

彼らが見ているのは、自分だけが賞賛を受け注目されるべき存在で、

それなのに不遇な人生を送っている可哀そうな被害者、

としての自分だけです。

そこに、他人への共感や心情を慮るという発想は

生まれる余地がありません。

 

それなのに、被害者や部下などのターゲットが

自己愛性人格障害者に対して

「それでも良心のかけらくらいはあるはずだ」

「人一倍傷つきやすいのだから、他人の傷も話せば理解

できるはず」

という期待を元に自己愛性人格障害者に対して

自分への理解を求めようとすればするほど、

被害者は傷つくことになるでしょう。

 

 

意図的に恥をかかさない

自己愛性人格障害者が最も避けようとするのは「恥」という

感覚です。

恥というのはいたたまれなさ、劣等感、自省の念も同時に生むものですが、

自己愛性人格障害者が恥というものを感じないのはご存じかと

思います。

ありとあらゆるストレスを避ける彼らは、

恥という感覚を受けることもストレスなので、それ自体も

避けようとします。

ところで、彼らは最初から恥を感じないのではなく、

恥を感じそうになる場面になると自然に「避ける」、

誰か(大体は悪い自分を引き受けてくれているターゲット)の

恥ということにする、あるいは強烈な怒りに変換する、

といったほうがいいでしょう。

 

ですから自己愛性人格障害者に恥をかかせようと

すると、それは何倍もの怒りに変換されて

被害者に戻ってきます。

そもそも自己愛性人格障害者というのは

恥をかかされようとする場面は何としてでも「理由をつけて」

避けようとするので、恥を感じるような場面に遭遇することも

あまりありませんが、

それでもちょっとでも自分ができない場面、

欠点をあらわにされるような場面になると

自己愛性人格障害者は自己愛憤怒を起こしがちです。

「自分は貶められた」。という感情を爆発させることになります。

被害者が意図的にしようとしまいと

そうなるのですが、わざわざ意図的に恥をかかせようとするのは

得策ではありません。

もちろん、そういう場面を避けようとするために

被害者は必死になって動くようなものなのですが。

 

証拠を集めておく

自己愛性人格障害者と思わしき人物と

ずっと関わらなくてはならないとき、

それが会社の人間であれ、家庭の人間であれ、

録音はくせをつけておいたほうがいいでしょう。

ちなみに、家庭でのモラハラやDVに対する信ぴょう性を

高めるのであれば暴言の時だけを録音するのではなく、優しいとき、

ハネムーン期と呼ばれる時期の言葉使いなども

録音しておいたほうがいいです。

 

というのも、警察の前では「配偶者を心配する善人を演じる」

「やんわり、自分のほうが正しく、被害者のほうがいつも

大騒ぎする元凶で困らされている」

という態度をとりやすいのが自己愛性人格障害者の特徴です。

その一時しのぎの演技だとしても、

配偶者でさえ何度も騙されているのですから

一度会った警察官がその演技に騙されないとは限りません。

ですから、「優しい態度もとれる」自己愛性人格障害者が、

「ひどいときはこれだけ豹変する」というようなギャップを

記録しておくことは非常に重要なことです。

 

良心に期待しない

自己愛性人格障害者に良心はありません。

自己愛性人格障害者の良心をつつこうとすることは、

基本的に徒労になると考えておきましょう。

彼らは他者を見るとき、100%コントロールできるように

相手に期待します。

そこで、100%をこなせないような人間というのは

自己愛性人格障害者にとって非常に無能だという風に

感じます。

そして、強い攻撃性を発散させるためアクティングアウトが

行われます。

直接的な暴言、暴力、といったものです。

 

そのあとに優しい言葉をかけることもあるかもしれませんが、

それは暴力性を一気に放出した後の妙な快感、多幸感に

よるものであって、良心からくる行動ではありません。

自己愛性人格障害者は「優しさ」というものも

コントロール材料に使うだけであって、

優しさを見せない自己愛性人格障害者はまずいません。

攻撃性と、支配性と、優しくみえる言動を

その時その時で使い分けながら被害者を支配していくだけです。

そこを理解して接しないと、「優しいから反省してくれたのかも」

とか「やっぱり根は優しい人なのだ」と勘違いする原因にも

なり、支配が長期化してしまうことになります。

 

 

必ず外界との関わりを持っておく

自己愛性人格障害者との関わりで危機的状況に陥るときというのは、

完全に支配され、時間・お金の管理から抜け出せない状態に

なってしまい、孤立化してしまうことです。

 

こういう場合、被害者もすでに正常な判断ができる精神状態からは

程遠い状況になってしまっていることが多いです。

 

自己愛性人格障害者は被害者が他者を尊敬したり

他者と密な関わりを持つことを非常に嫌います。

そして、被害者自らが自分の対人関係の領域を

狭めるように仕向けるでしょう。

 

「あんな人間と関わっているなんて恥ずかしい」

「誰とでも仲良くできるような人間なんかいるわけない、

自分がただ嫌われたくないだけだろう」

「いい年して、家族がいないと動けないのが

みっともない」

「なぜ、あの人達はあなたに執着するの?

もしかして、あなたのことが好きなのではないの?」

というような感じで被害者や被害者に関わる人間を

非難してしまえば、

被害者というのは自ら「自分の行動が誤解を

招いているのかもしれない」と自分の交友関係を整理して

しまうものです。

 

自分は自分、他人は他人だと境界をしっかり持つ

自己愛性人格障害者というのは、自他の区別がつかず

境界が曖昧です。

基本的にターゲットになってしまうような人間が

上記のような「自分は自分ですよ」というような

態度をとってしまうと激昂されますが、

ターゲットになる前である場合は、ターゲットにされないためにも

「自分は自分、他人は他人」であるという

態度を持って接するほうがいいでしょう。

被害者自身が自他の区別がつきにくかったりお節介である場合でも、

そういう態度をとることはできます。

 

そして、そういう意識を持つことで、

自己愛性人格障害者の言うことに一喜一憂したり

振り回される感覚がある程度は軽減されるはずです。

自分は自分、他人は他人というのは繋がりを重要視する

被害者にとってはなんとも冷たく感じる言葉ですが。