「体罰が必要」という考え方

モラルハラスメントは、

相手に責任転嫁することが

第一条件です。

 

それは、モラルハラスメントを行う側が、

自分で責任をとるほどの心の強さがないからです。

 

ですので、

「ああ、あなた。私の代わりに責任をとってね」と

物理的に何かを押し付けるというだけではありません。

「私の代わりに」なんてことを思うこともストレスですから、

最初からお前がとるべき責任だろう、

というような形をとります。

 

その考えの最たるものは、体罰や躾と称した虐待です。

 

体罰というのは、何かに対して直接的な攻撃を

してしまうことです。

攻撃をしてしまうにも関わらず、

「お前のせいだろう」というような形をとります。

 

ところで、子供や誰かが何か他の人の心を踏みにじるような

行為をしたとき、踏み入っていけない領域を侵害したとき、

それに応じた身体的な痛みや精神的な痛みが

必要であることは確かであるようです。

まったく身体的ダメージを与えられなかった子供というのは、

虐待による身体的・精神的ダメージを与えられてきた子供と

同程度の問題行動を起こすことも知られています。

 

誰かの踏み入れてはいけない領域に踏み入れたとき、

それ相応の罰が与えられる、というのは

知っておくべきことです。

 

ところが心の弱い親、毒親、人格障害を持つ親・・・などは、

そういう要素を抜きにして、明らかに

自分のストレスを自分で処理できないことが頻回にあり、

そしてその閾値があまりにも低く、

何度も何度も、長い期間、執拗に子供に対して体罰しようとする

様子が見受けられます。

 

自己愛性人格障害者だと長時間の説教、暴言なども

含まれてくることが多くなるでしょう。

 

必ず体罰が必要、というのは、

自分にとって必要なのであって、

「自分は体罰なしには子供のミスや欠陥が耐えられない」

というような意思表明でもあります。

 

ですから、

「体罰が必要だよね」という言葉は、

上記のような理由で「自分も親として子供のやっていることが

許せないこともあるから、そういうときは領域を教えるために

体罰が必要だと思う」という考え方と、

「体罰がないと自分が人間として耐えられない

(それ以外の子育てになんの意味があるの?)」という

考え方に分けられるといえます。

 

そして、後者である人の中には、

体罰というものを正当化しようとすること、

そして体罰は必要であると声を上げることが

自分の信念である、アイデンティティである、

というほどに肥大してしまった人達も散見されます。

 

度々メディアで取り上げられる「戸塚ヨットスクール」の

戸塚宏氏などを見ると非常に分かりやすいですが、

アイデンティティが確立されていないと、

自己主張や正当化だけが目立ってきてしまい、

非常に個性が強く、理屈にかなっていて、

信念が強いように見えてしまうのですが、

 

実際は自分の「攻撃欲」を守ろうとする、正当化したい、

といった人間の心理的本能に支配されてしまっている

状態です。

 

体罰が絶対的に必要である、という

信念を持っていて、なおかつそれを何度も主張してくるような

場合だと、そういう人は

自分の攻撃欲を抑えられない、なおかつどうにかして

それを正当化しないと生きていけない、

といったように解釈したほうがよいでしょう。