口先だけで中身が伴わない人

口先だけで中身が伴わない人は、

「自分の中身を見ないために」理想を語るという

特徴があります。

 

つまり、根本的には自分が能力不足であることも

理解していますし、

自尊心も低い場合が大半です。

ところがそれを直視できないような状態だと、

理想を語れる自分がさもそれを現実的に成し遂げられるかのように

感じることになります。

 

むしろ、そういう自分であるために、

どんどん理想論を膨らませることにもなるでしょう。

 

「現実を見れない」ことにもつながっていきますし、

「現実を見ないで済む」ために理想やきれいごとだけを

並べていくのです。

とんでもないアイデアを思い浮かべるのは

誰だってできます。

ところが、そのアイデアがただの机上の空論であれば、

なんの意味もありません。

 

ブレインストーミングの材料にするというのであれば

その発想は有効なこともあるでしょうが、

そういった意味ではなく、

自分の能力が低い人、中身が伴わない人ほど

「いや、こんなに素晴らしいアイデアを思いつく人間は

他に誰もいないし、画期的なアイデアだと

思わない人間のほうが愚かだ」と考えてしまいます。

 

自分の能力が低い人ほど理想論を並べやすい理由には

もう一つあり、

 

「理想が高ければ高いほど、自分の能力不足を

ごまかすことができる」からです。

自分の成し遂げようとしていることが高ければ高いほど、

期間に猶予を持たせることができますし、

もしできなくても、自分の能力不足からくる失敗ではなく、

それだけ簡単なものではなく、とても常人では成し遂げられない

高い目標だったからだ、

と言い訳することが出来るからです。

 

ところで、「口先だけで」と言っても、

口先だけでも大きいことを言うとか、

立派な自分に仕立て上げるということは

それだけで快感を得られるという効果があります。

 

「ただ」言っているだけなのに、

それでも自分の中の現実を変えられるような

感覚に陥ります。

「●●が得意」ということを示したいのであれば

やたらと専門用語を使ったり、小ネタをはさんできたり、

いかに自分がそれに対して情報量が人よりも多いか・・・

といったことも他人に示そうとするでしょう。

 

けれども、そういうメッキはすぐはがれるのに?

また自慢が始まったと思われるだけなのに?

という人もいるかもしれませんが、

「自慢」と言われようともそれは

「自分にただ攻撃をしたいだけの人間」としてしか

見なされません。

 

第三者には、

「口先だけで中身の伴わない人」に見えても、

実際には相手は「中身が伴っているからこそ

こういう発言ができるのだ」と感じているからです。

 

たとえば、「料理が得意」ということを

周りに知らしめたい人がいるとします。

 

ここで、知らしめたいと思っている時点で、

「自分は料理が苦手だから、それを隠すために

料理が得意だと思われたい」と感じているのではなく、

「(潜在的・無意識的には料理などどうでもいいし

ニガテだしむしろ嫌いだが)

自分は料理が得意である」と実際に確信し、

感じているということです。

そういう人は、何か新しい知識を得たときに、

誰かに何かを伝えずにはいられません。

自己顕示欲がムクムクと起きだし、その人をつつくからです。

 

自己愛性人格障害者もそうですが、

そういう劣等感を埋めるための

「私は●●が得意であり好きであり、これが趣味」

というような確信というのは、なかなか揺らがないのが特徴です。

 

ですから、たとえば本当に料理好きで料理教室で

講師をするくらいの人ともし料理をする機会があるとしたら、

そういう機会はなるべく避けようとします。

しかも、そこで

「あ、自分って本当は料理が好きじゃないんだ」と

確信が揺らぐのではなく、

「自分って料理が好きだから皆にふるまいたいけど、

体調が悪い」

「どうしても都合が合わない」

「だいたいなんでその日程なのか分からない。

人の都合も考えてほしい」

とストレス回避によるイライラも伴いながら確信を持ち続けるのが

特徴です。

 

自己愛性人格障害者ほど強烈な劣等感の塊のような

存在になると、

そもそも「料理ができない」というのは一つの要素ではなく、

「料理すらできない」というような非常に

マイナスイメージの強い要素になってしまいます。

 

だからこそ、自然とそういう人は

「料理くらいできて当たり前である」

というハードルを自分自身で勝手に上げていき、

なぜか「本当はそうではない」ようなことが暴かれそうな

場面に差し掛かるとそれを暴こうとした人間に

恨みを持つようになります。

たとえば上記のような「料理の講師をするような人と

一緒に料理をする機会」があるシーンだと

「そういう話を持ってきた人」や「そうせざるを得ない

状況を作った人」や「日程を決めた人」や

「料理講師そのもの」に対しての恨みです。

 

自分自身は「料理ができる人」を演じ続けないと

いけないからこそそういう恨みが出てくるという

身勝手な話になりますが、

劣等感の強い人達にとっては

自分自身を欺こうとする勢力だとかそういう

恨みの念で接する必要がでてくるわけです。