依存を克服したいとき

自己愛性人格障害者は

依存状態に陥りやすいといえますが、

ターゲットも同じことです。

 

自己愛性人格障害者とターゲットの関係性について

言及される場合、かならず「共依存」というキーワードが

出てきます。

本来はアルコール依存症とその関係者に限った

言葉だったのですが、

この共依存というのは今日、

「ある個人と、特定の者が過剰に依存しあっているもの」

という言葉で表すことができます。

 

しかし、ターゲットの多くは、

これを理解することができません。

自己愛性人格障害者のターゲットから外れてもなお、

「たまたま、運が悪かっただけだ」

「次こそは、ちゃんとした愛を獲得してやる」

といったような解釈をしていることが

少なくありません。

 

「次こそは」という言葉自体が、

誰かを愛し、愛されたいという想いの表れであるだけならば

なんら問題はないのですが、

愛し愛されることに対して非常に執着している、

まるで愛なくしては生きていく価値などない、といったように

恋愛で得られる快・不快や繋がりが

麻薬のように感じられ、激情の愛ばかり求めてしまう、

そのために恋愛をするようなものだと

結局その麻薬のような快感のために

モラハラ思考からくる暴力やDVに耐えうるといったような

事態に再び引き込まれかねないからです。

 

そういう想いは恋愛依存を生み出すのですが、

まずその恋愛依存の状態をターゲットが

自覚することが何よりも重要です。

 

また、形式的な愛を求める人というのも

恋愛依存に陥りやすいといえます。

「困っているこの人を放っておけない(恋人なのだから、

夫婦なのだから、助け合うのが常だ)」。

「パートナーなのだから、お互い助け合って

支えあって生きていくのが当然。

簡単に別れるなんておかしい(と言いながら

辛い恋愛を何年も続けている)」。

「周りだって辛い思いをしながら夫婦というものを

継続させている。自分は忍耐が足りない

(周りが周りが、と言いながら周りの基準に

自分たちを無理やり当てはめようとし

自分をないがしろにする)」。

 

ただ、それは「自分がそうしなければ」と

過剰に思っているだけ、思わされているだけで、

その想いの通りに動かないと

自分というものが壊れてしまうという

いわば強迫観念のようなものに突き動かされている

だけだったりします。

 

「離婚」だけは嫌だ!受け入れられない!という

気持ちは、覚悟ができないから選択を後回しに

しているだけ、ということもあるのです。

 

まずは、依存状態にあるだけなのだということを

自覚する必要がありますが、

その自覚ができないという状況ではまだ

「依存状態にある必要がある」

ということになります。

 

依存、というのは、相手になにかを期待しています。

自己愛性人格障害者にとってのターゲットは、

「昔得ることができなかった自己愛を得続けようと

する行為」により自己愛を満たすためだけに

存在する鏡でしかありませんが

(ターゲットに限らず周りの人間も皆そうですが)、

 

ではターゲットは自己愛性人格障害者に

何を期待しているのか?というと、

「変わってくれること」ですね。

 

つまり、モラハラをやめて、

本当の愛を与えてくれることです。

そして明らかに「この人自身が変わってくれること」

だけをしつこく期待します。

そのためだけにモラハラに耐えるのです。

そのためだけ、といってもターゲットにとっては

とてつもなく大きな・重要な課題といえます。

 

まるで個人が自分のモラハラに気が付くことが

「いつか」できる、

そしてそれには自分の忍耐と真心が必要なのだと

言うように。

その忍耐と真心というものを過信しているような

状態です。

では、忍耐と真心をなぜ過信しているのか?

というと、忍耐と真心、あるいは愚直に動き続けることでしか

愛がもらえない、と幼いころからそういう

システムを他人に(重要な他人に)組み込まれてきた

ということです。

 

我慢が必要、まじめにしなくてはならない、

愛を与えるものが絶対的な存在である。

不合理なことがあっても、人生とはそういうものだ。

自由に、好きに生きていくなんてそんなことはまずできない。

人生は楽しむものではない。

そんな奴は生きていく資格も愛される資格もない。

 

そういう刷り込みがあると、

ターゲットはターゲットとしての人生を歩むことになります。

 

つまりそのターゲットというのは、

一人で考えて自由に生きていくことでは

愛されないことを悟ります。

愛を与えるものが絶対的に有利な存在で、

愛がほしいなら誰かに従順であり、そのものから

不合理なことをされても耐えなくてはならない。

それが当たり前になっているのです。

 

 

アルコール依存症と恋愛依存や他の依存は

全く関係性がないわけではありません。

 

むしろ、依存状態というのは共通点があります。

「それがなくては、生きていけないと思い込んでいる」。

アルコール依存症の人間はアルコールがないと生きていけないと

思い込んでいます。

恋愛依存症の人間は恋愛がないと生きていけないと

思い込んでいます。

「自分はパートナーなんていなくても

生きていけますよ」と考えることができるか

どうかが問題ではありません。

実際に一人で生きていくと考えると強烈な不安と孤独感、

生きていても価値がないような感情になるのであれば

それは「自分ひとりで生きていける」性質を持ち合わせて

いないということになります。

 

 

アルコール依存症、恋愛依存症、

どちらの場合もそれ(恋愛の場合は恋愛)を摂取すれば、

脳内からそういう快感物質は

得られるわけですからその快感こそが

幸せであると勘違いしがちですが、

実際にはそれを得ることで何かしらの課題から逃げようとしている

場合も非常に多くあります。

誰かが何かに依存するとき、というのは

依存する必要があるからこそ依存するのであって、

「辛いからもう逃げたい、離れたい、

自立したい」と思っていようとも

無意識では自分が何らかの理由で依存をしたくて、

その依存状態に陥ることによって何かを得ようとしている。

 

多くのターゲットでは、

親から得られなかった愛を得ようとしている。

 

「支配的な親が嫌だった」という人間が

親に似たような「支配的な」人間に惹かれることも

あるでしょうが、

なぜそうなるかというと「昔の体験を再現したい」からです。

支配が嫌だったのになぜまた支配してくるような人間を

パートナーに選ぶのか?というのは、

その支配してくるようなパートナーとの恋愛が

昇華されれば・・・すなわち「愛を獲得」できれば、

昔の支配的で嫌だった、という苦しい経験も

昇華されると無意識に考えているからです。

 

その体験を再現し、愛を獲得できれば

自分の「昔、親の言う通り愚直に行動したのに

愛を獲得できなかった」という

苦しみから解放されたい一心で、

そういう選択をします。

 

当然ですが親からの愛は親から受け取る必要があります。

ところがそれがどうにも叶いそうにない場合は、

代替手段として「親に似た性質を示すパートナー」を選びます。

それが今、生理的に無理な親だったとしても、

昔の「傷ついた自分」「その親が重要人物であった、

小さいころの自分」を癒やしたいと本能的に感じるものです。

 

 

依存というのは、

単純に「愛を獲得したい」というものではありません。

なぜ、そんな愛に必死になるかというと、

「昔、得ることのできなかった愛」だからです。

支配的な親から得られなかったその愛を獲得するために、

再び支配を受け入れようとする行為ともいえます。

 

自己愛性人格障害者もまた、

支配されてきた人生への恨み、そしてそれは多くの場合

「親への憎悪」を抱えて生きているのですが、

それはいつのまにか社会やパートナーへの

怒りや恨みに変貌していきます。

恨みを晴らしたいのですがこの場合も親へそのまま

晴らすことはできないので代替手段を使うということになります。

 

そしてその怒りは自己愛憤怒として度々噴出していきますが

そもそも親への怒りを社会やパートナーにぶちまけても

怒りは収まりません。

 

ターゲットも、相手が自己愛性人格障害者でなくとも

相手に対して依存状態を示しやすい状態にあるのですが

「自分の望む愛、得られなかった愛」をひたすら得ようとする

傾向にあります。

 

まずは自分は愛の再獲得のためにそういう状態に陥っていて、

感覚的にそういう感情になるのは必然なのだという

認識が必要です。

 

「自分は依存状態なのだ」と感じても、

「それ自体がダメなのだ、なんとかしないと」

「恋愛なんかしていてはだめだ」と自罰的になるのは

逆効果です。

自罰的になるのもごく自然なことなのですが、

その感覚はより自分を依存傾向へと導くでしょう。

人は辛くて孤独でどうしようもないとき、

分かりやすい快楽・・・つまり脳内物質に頼りやすいのですから、

より恋愛がしたくなったり依存状態に陥ったりするのです。

 

アルコール依存症患者がアルコールを飲んでしまって

「やっぱり自分はダメだった」と自暴自棄になり

より快楽でごまかそうとしたり(アルコールをさらに飲んだり)、

薬物依存症患者があることで失敗してしまい、

薬物を断ち切るつもりだったのにまた使ってしまった、

となるのは辛い思いから快楽を得ることで逃れたいという

気持ちが強くなる、

むしろ逃れなければおかしくなってしまうという

感覚に襲われるからです。

 

恋愛依存も同様に、孤独でどうしようもなくて

恋愛をしていなくては生きていけない、

誰かがそばにいて愛してくれないと人生に

なんの価値もない、

という感覚から逃れるために恋愛に陥ります。

 

恋愛をするのではなくて、

恋愛しなくては生きていけないのです。

そういうとき、自己愛性人格障害者はとても分かりやすい

愛情表現をしてくれますし、

彼ら自身も依存状態にありますから

恋愛依存に陥っているターゲットの思考とは

とてもしっくり、ひかれあうのが必然というような感じで

めぐり合うことができます。

 

それが共依存の関係の始まりなのです。

依存を克服したいとき、まずはそれほどの価値が

依存することにあるのだ、という認識を

することが必要になります。