不幸を競う自己愛性人格障害者

被害者は考えます。

 

どうやったら、

自分の辛さを相手は理解してくれるのか?

どれほど血を吐くような思いをして

暴言に耐えているのかを

いつになったら気づいてくれるのか?

 

相手に何かしらの罰が与えられたら、

自分の痛みを通じて

人をどれだけ傷つけてきたのかを

思い知り、反省するのでは?

 

ということに、

被害者は思いを巡らすのですが、

大抵の場合は、

「被害者が思いを巡らし続けるだけ」

になります。

 

たまに自己愛性人格障害者が

自分の罪を反省し、加害者自身も

苦しみながらなんとか頑張って

生きていっているのだ、

という姿勢をみせるので、

被害者は余計に思いを巡らすのです。

 

「ああ、もう少しいけば、

この人は自分の傷を理解してくれるかも

しれない」

「この人も辛いのだから、

自分が付き合わないと」

 

と、こういう風に被害者が

自然と思わされることを含めて、

それもモラハラといえるでしょう。

 

ところが自己愛性人格障害者というのは、

いつまで経っても

「自分は仕方なく暴言を吐いているのだ」

というスタンスを崩しません。

「こんな事を言わされる

自分だって辛いのだ」

というのは

お前のためを思って言っているんだよ、

というふうに聞こえますが、

 

結局のところ

「言われてるお前より

言わされてるこっちの方が

辛いんだよ」

という不幸の競いあいでしかありません。

 

自己愛性人格障害者というのは

この不幸の競いあいのループに

はまるしかありません。

 

ですから、

自己愛性人格障害者が

なにかしら罰を与えられ損失を加えられると

したら、

 

反省するどころかその損失を大々的に訴え、

それを盾に反撃か八つ当たり

してくることでしょう。

「自分はこれだけの被害を

被ったのだ!」

といい続けるきっかけにしかならない

ということです。

 

被害者がいくら

自分の辛さを訴えても、

相手の辛さというのは

「お前よりもこっちの方が

辛いんだ」という訴えの燃料にしかなりません。

 

あるいは、相手よりも不幸であると

明言して競えない状況にいたら(相手が

不治の病であるなど)、

「お前が辛いから、

こっちも辛い(お前の痛みは自分の痛み)、

いや、お前は耐えるだけでいいかも

しれないが、

見守っているこっちのほうが辛い、

これだけ辛い」と、

 

痛みを分かち合うふりをして

なぜかやはり不幸自慢になってしまいます。