同情を誘う自己愛性人格障害者と、まんまと同情する被害者

自己愛性人格障害者というのは、

どれだけ自分が被害的な目に遭っているか?

というスタンスをとらないといけませんから、

 

どれだけ周りが

自分に対して酷い行いをしているか?

どれだけ自己愛性人格障害者をいらだたせる愚鈍な

人間ばかりなのか?

ということを訴えると同時に、

周辺はこれだけ苦しみ悶えている自分を

ほったらかしにして助けようともしない

冷酷無比なやつらばかりだ。

人ととしての心がないし常識もない。

 

という一種の脅しを仕掛けてきます。

 

自己愛性人格障害者が苦しい、死にたい、

もう人生が狂ってしまった、

といえば、

 

真性の被害者は確かに自分の責任だと感じ、

「自分が何とかしないと!」

と思うでしょう。

 

実際、自分のやったことの後始末は自分が

しないといけませんし、

自分に降りかかったことのすべては、

自分で処理しなくてはなりません。

 

それは身体的にもそうですし、

精神的にも同じことがいえます。

 

自己愛性人格障害者が苦しもうと、

被害者には本来関係はありません。

 

自己愛性人格障害者は「恋人なのに」

「自分の分身であるはずなのに」

「パートナーであるはずなのに」と

被害者の立場がいかに重要かを

こんこんと説明するかもしれません。

 

しかし、そこまで重要な立場ならなおさら、

相手に対して「お前はこうしてくれない」

ということは言えないはずです。

 

自己愛性人格障害者は

「お前が重要な人のはずだから、

自分を助けるのが常識であり義務であり

愛だ」

という言い方をするのですが、

それは本当に大切な人間であるということとは

程遠く、

「自分を助けるのが当たり前、

という立場でいてほしいから

パートナーとして選んだ」

という答えでもあるのです。

 

しかし自己愛性人格障害者はいかにも

こんな自分に同情しないのは人としておかしい、

というような言い方をしますから、

被害者は自分が人としておかしくないように、

さらに攻撃されないように精一杯

自己愛性人格障害者に対して「常識的な」

「愛のある」「やるべき当然のこととして」

心配し、あたふたし、可哀想だと同情し、

自己愛性人格障害者の責務を変わりに

背負おうとするのです。