自己愛性人格障害者の特徴

⚫男女比⚫
まず男女比として、
自己愛性人格障害者は男性が
多い傾向にあります。
一方、境界性人格障害者は比率として
女性のほうが多いです。


⚫父親の不在、母親の過干渉⚫
まず自己愛性人格障害者の
成り立ちとして、この父親の不在、
母親の過干渉というものが挙げられます。

もちろん必ずしもこのパターンでなければ
自己愛性人格障害者にはならない、
というわけではありません。
母親がおらず父親のみに育てられ、
その父親が過干渉であるという場合でも
ありえるでしょう。

不在、というのは物理的な不在も理由と
なりますが、だいたいは「機能していない」
という意味での不在という表現です。

家族の問題に興味を示さない、
どこか家族と距離を置こうとする、
形式的なことしか言えない、などです。

また、過干渉という言葉も
色々と世話を焼きたがる…という
レベルではありません。

何かにつけて
「配偶者や子供をコントロールしようとする」
「怒り、愛という言葉、躾、
思いやりに置き換えて相手を
支配しようとする」
という特徴があり、

こどもや配偶者が思い通りに
ならないと、癇癪を起こしたり
物理的な攻撃を加えようとしてくることも
しばしばです。

こどもの自我が芽生えることを
こういう親はなによりも嫌います。
自我が芽生えるということは、
「あなたと私は違う存在」だと
思い知らされることになるからです。

過干渉な親にとってこどもはいつまで経っても
コントロールされるべき人間で
いなくてはなりません。

こどもの自我が確立しないうちから
そういうことが起こるため、
自我の芽生えが顕著になる反抗期では
特に過干渉な親からの押さえつけが
酷くなります。
ただの押さえつけだけではなく、
こどもの罪悪感を利用し
自我の芽生えこそが親不孝、という
意識の植え付けもなされます。

 

 

 

⚫自我の形成が不十分⚫
こどもはこの繰り返しによって、
自我を芽生えさせることに対して
罪悪感を持ち、自我が確立しないため
さらに自分というものが曖昧であり
非常に惨めな存在である、という認識を
自分自身に対して行います。

長年親の思い通りにさせられようと
する人生が続くわけですから、
こどもにとっては
思い通りにならない人生というのが
当たり前になるのですが、
それ自体がストレスになり、自分というものが
惨めでちっぽけで恥である…という
ストレスも重なり、
それ以上ストレスを受けると心が
崩壊してしまうという危機的状況に
晒されます。

自我が未発達なこどもの頃は、
自分には強大な力があるとか
なんでもできるとか幼児的万能感が
当然としてあったり、
他人のせいにするとか癇癪を起こすとか
そういうことはあるわけですが、
自己愛性人格障害の
場合、それが大人になっても続きます。

 

 

 

 

⚫自他の区別がつかない⚫

こどもと違うのは、
こどもは「自分の自我を芽生えさせるために
人に対して攻撃する(あなたと私は
違う存在、ということを示す)」
のですが、
自己愛性人格障害者は「相手の自我を
出させないようにするために
攻撃する(この世や他人は
別の存在でありコントロールできない、
ということを理解したくないために)」
といえます。

この世は思い通りにはなりません。
他人も思い通りにはならないのです。
また、他人の思い通りに動かなくても
いいのです。

なぜなら、
自分は自分、他人は他人、
世の中は世の中として動いており、
それぞれ別世界です。

ところが、その事実さえ
自己愛性人格障害者には強烈なストレスと
なります。
今まで思い通りになったことがなく、
思い通りといっても何がしたいのかも
分からないほど自我を押さえつけられ、
もうこれ以上思い通りにならないという
事実を少しでも認識したくありません。

ここで、心を守るため過剰に防衛機制が
働きます。

他人と自分は別存在である、という
その事実を捉えないといけないような事柄を
過剰に避けたり、
他人のせいにしたり、
他人の課題にしたりするのです。

自我が確立していない自己愛性人格障害者が
心を崩壊させずに生きるには
こうするしかありません。

これが、
自他の区別がつかない大きな原因で、
すなわち自分も他人も同じ存在である。
という意識から離れられない所以です。

 

⚫自己愛性人格障害者のモラハラ⚫
この防衛機制を最大限に働かせて
いる状態がモラハラ、ということに
なります。
最大限、というのはできる限りの状態で、
可能な限りの(社会的に受け入れられ難いような
防衛機制でも)という意味です。


自己愛性人格障害者というのは
思い通りにならなかった。
本来は思い通りになるはずだったのに。

という強いストレスが頻回に生まれます。

境界性人格障害者も同じように
自他の区別がつかないため思い通りに
ならない他人が理解できず
腹を立てて攻撃するのですが、

境界性人格障害者も自己愛性人格障害者も
「投影」という防衛心理…
すなわち自分自身を相手に投影する、
自分の酷い側面を、相手の側面だと
思い込んでしまうことで、
腹を立てます。

投影というのは
相手を自分自身の一部だと思い込むことでもあるので、
「あなたと私は一心同体」
「あなたは私の分身」と感じるのですが、
これは自他の区別がついていないからこそ
感じるものであり、
決して愛しているからとかそういう理由では
ありません。

自分の考えていることを
「これは自分の考えである」と
認識できるのは当たり前ですが
それが出来るのは自己が確立している
からです。
自己愛性人格障害者は対人的な側面では
病的な状態であるので、
自分の考えなのに「あいつはあんなこと
考えてる」と勝手に確信します。

相手の考えなどわからなくて当然なのに、
まるで相手の考えがよく分かるように
感じ、さらにそれは「確信」であり
彼らにとっては疑いようのない事実なのです。

境界性人格障害者の場合、
投影の防衛心理がより強く働くため、
距離が近くなれば近くなるほど
相手が少しでも自分の思い通りに
いかないとすぐにカッとなって怒鳴ったり、
物理的に攻撃を加えたりするようになります。

そして、
それを自覚できるのもまた特徴です。
自分は怒り狂って怒鳴ったとか、
こういうことをしなかったから腹が立ったんだとか、そういうことを罪悪感もないように
第三者にも述べられます。
ですからモラハラというよりは
直接的な暴力に発展しやすいのが
こちらでしょう。

ところが自己愛性人格障害者の場合、
「自分を崩壊させないための」防衛機制が
まだたくさん働く状態です。

それらはあまりにも幼稚な防衛機制であり
社会(距離が近くなっている人や
グループ)には適応できませんが、
これが働いているため、
自分は絶対に傷つかずに済みます。

心理的に責任を回避することができます。
罪悪感を感じずに済みます。
どれだけでも相手を罵倒できます。

 

 

 

 

⚫モラハラの構成要素⚫
モラハラというのは先述の通り
防衛機制…特に社会的に受け入れられない
ような未熟な防衛機制をフルに
発揮して行われる、
「自己愛性人格障害者にとっての
最大の防御のための思考であり、攻撃」
となります。

防衛機制というのは
人類皆備わっているものであり、
生きていく上で人間が大なり小なり
抱える葛藤をなんとかしてバランスをとって
葛藤に心が押し潰されないようにする
防御反応です。

この防御反応を適度に使いつつ、
生きていくことは心のバランスを保つ
ためにも重要なことです。


本来は自己愛が満たされ他者愛に移行
してゆくのが人間の正常な心理ですが、

それが満たされてこなかった
自己愛性人格障害者は
自我が未発達なので、
いつまでも自己愛に拘り続けるしか
ありません。

そして防衛機制が勝手に「自己愛」に
拘り働くので、

自己愛性人格障害者は半自動的に
それに沿って思考させられ、
怒りを覚えたり被害者の顔をしたり
人のせいだといつまでも恨んだり
あからさまに自己陶酔したり…。
といったことになります。

自己愛性人格障害者の
モラハラ思考を構成する要素である
防衛機制を
少し挙げてみます。

「投影」…相手を通して自分をみる。
自分の感情のはずなのに相手がそう思っているのだと確信する。
特に、自分の中にあるよくない感情を
相手こそが持っていると思い込む場合が
多い。


「否認」…現実として起こっている事実を
知覚しても(その場で体感しても)、
受け入れがたい事実のときには認識
しないようにする。

 

「抑圧」…受け入れがたい出来事や、
その出来事に対する感情や観念を
無意識に押し込めてしまうこと。

 

「合理化」…都合よく、理屈をつけ納得する
受け入れられない事実、感情や物事を
無理やり理屈付け、納得しようとすること。


「置き換え」…八つ当たり。
本来ストレスをかけてきた相手ではなく、
別の対象に置き換え、攻撃したりすること。

 

「行動化」…抑圧された葛藤を社会に受け入れられない形で表出してしまうこと。
暴言や暴力、アルコールに依存することや
お金を散財してしまうことも含まれる。


たとえば自己愛性人格障害者は
「そんな事実はない」かのような
言動をすることがあります。
そんな場面に何度も遭遇するでしょう。

被害者は、「覚えていないなんて
記憶障害ではないのか」と考えたり
「自分に不都合なことばかり
忘れるなんて、絶対に嘘だ」と責め立てたり
しますが、
これは否認という防衛機制が
大きく関わっています。

記憶障害なのではなく、
心がそれを認識しないようにしようという
働きが強いために、
事実をまるごと無かったもののように
打ち消してしまいます。

合理化でいうと、
いわゆる「リンゴが食べたいのに
リンゴに手が届かない」という
葛藤から心を守るために、
「どうせ中身がスカスカで美味しくない
リンゴなんだろう」と
自分で理屈をつけることはよくあることです。


自己愛性人格障害者の場合は
どうしてもこの大学に行きたいのに
大学に落ちた、といった場合は
「あそこの大学はクソだ、
だから自分に相応しくないのだ」
「あんな大学に通う人間も愚かだ」
「そもそも本当はあんなところに通いたい
わけではなかった、だから勉強も
真剣に出来なかったんだ」
「しかも親もことあるごとに口を出してきて
落ちたのは親のせいだ、一生恨まれても
仕方がないことだぞ」
と理屈をつけることは珍しくもありません。

これらはすべて合理化によるものです。
そこには、事実の歪曲も含まれていて、
親もことあるごとに口を出してきて~
と言いつつそんな事実はなかったりします。

この歪曲も防衛機制の一つでもありますから、
いくら「事実はこうだ、あなたも見ただろう」
と被害者が訴えようと、
歪曲という防衛機制が働いている限りは
歪曲された事実でないと自己愛性人格障害者は
受け入れられないという意味ですから、
徒労に終わるでしょう。

現実を生きる力が弱いからこそ、
現実を認識できず、自分の都合のいいように
曲げるしかありません。
それこそが心を生かす術なのです。


上に挙げたのは防衛機制の一部ですが、
自己愛性人格障害者はこれらを使って
(使わされて)心の平穏を保とうとします。

しかし自己愛性人格障害者は自我が
未発達で心が脆弱であるため、
とにかく強烈な形でこれらを発動
させなくては自分を守れません。

 

⚫モラハラの具体例⚫

たとえば、自己愛性人格障害者の
大好きな調味料を被害者が
揃えていなかったから
それが怒りの引き金になったとしましょう。

「ああ、そうなんだ。まぁいいよ。」
最初は了承していたはずの
自己愛性人格障害者ですが、
途中から食事中にやたらと音を立て、
イライラしているような様子を見せ、
「食事さえまともにとれないのかよ…」
「最悪だな」
と呟きながら、食事も終えずに
食卓から離れます。

このとき、自己愛性人格障害者は
何らかの理由があって
「攻撃したい」と
思っていて、それが出来る理由を無意識に
探しています。

それがたまたま「配偶者が、
自分の好きな調味料を揃えていなかった」
ということになります。

被害者は、またか…。と思いながら
食事を片付けようとしますが、
片付けたら片付けたで、
「えっホントに片付けたの?
なんだ、まだ食べようと思ってたのに。
こっちは何食べればいいの?
えっ食べ物も取り上げるわけ?」
と言ったり、
まだ食べるかなと思って片付けないと
「いやいや、ちゃんと片付けようよ!
そんなことまで言わないといけないのかよ!」
と言い出すかもしれません。

これはダブルスタンダードと言います。
自己愛性人格障害者がよく使う手法です。
つまり、どの答えを出されても
納得はしないのです。

かといって、
「まだ食べる?もう食べない?」
と尋ねると、無言のままのことも
あるでしょう。
チッ、と舌打ちすることもあるでしょう。

どう尋ねようと
どう行動しようと
自己愛性人格障害者は
「被害者は、そんなことも分からないくらい
愚か」
という形にします。

このとき、自己愛性人格障害者は、
「思い通りにならなかった」
ことに対して激しく怒っているのですが、
それを表面化してしまうと
悪者になってしまいます。
意識に上がってくると
「そんなことで怒る自分」という小さい自分を
みないといけなくなるので
意識上にさえ上らないようにします。


ですから、
「食事さえ思い通りにはならない」
「それ以外のことも思い通りにならないから
せめて食事くらいは思い通りにしたいのに」
という形をとります。

ですから
「こんなにストレスが今たまっているのに!」
という訴えが始まり、
そのストレスがどのくらいたまっていて
誰のせいでたまっていて…。
ということをひたすら被害者にぶつける
でしょう。

が、これこそが
本来自己愛性人格障害者の
行いたいことであり、
本来は調味料が揃っていないことなど
どうでもいいのです。

本当にそれがストレスならば、
なにがなんでも調味料を自分でも
揃えようとするでしょう。
けれども自己愛性人格障害者は
そうはしません。

さらに、
「相手は故意にやっているのだ」
と思い込みます。
「わざと、まともな食事を
とらせないのだ」
ということですね。
こうして、「食事もまともに食べさせて
もらえない自分」
「ちょっとした家事さえできない
愚か配偶者」
という構図が自己愛性人格障害者の
中に出来上がります。


正当防衛だとすれば自分は悪くなくてすむ、
と考えるのが心の守りかたとして
当然あるからです。
先に攻撃してきたやつが悪い、
それに応戦するのは当然の心理だ、
ということだからです。

これは自分が相手を攻撃するに
足る理由としても使われ、
「故意にやっているのは、相手」と
本当は故意にやっているのは自分なのに
その悪い自分を相手に引き受けてもらう
効果があります。

こうして、
自己愛性人格障害者は
醜い自分を見ずに済み、

どれだけ相手に説教しても
罪悪感も持たず、納得もせず、
ひたすら相手を非難できるということに
なります。

「食事もとれない、酷い家庭。こんな生活なら
もう離婚したほうがましだ」
と被害者の側面を強くしたほうが
被害をより強く訴えられ、
罪悪感を植え付けられるならそうします。

しかしそれで被害者が「じゃあ離婚しかない、
もうこれ以上は無理だから」
と言うと離婚はあっさりと撤回します。
なぜならその被害者の感情、ひどいことを
されているという感情もモラハラ思考に
よって引き出されているだけのものであり、
自己愛性人格障害者自身のものではないから
です。

自己愛性人格障害者にとって
ターゲットが離れるということは
投影する相手がいなくなってしまう
だけですから、
本当に離婚するのは得策ではないのです。

ですからあっさり撤回してしまいます。


自己愛性人格障害者が
ここまでやるのは、被害者に不満を抱えているときだけでなく、
たとえば仕事に対して思い通りに
いかないことが出てきて、
しかし仕事相手に攻撃するわけにはいかないから
配偶者に攻撃したいとき…。
というときであったりもします。

いわゆる八つ当たり、という形で発散
したいときです。

しかし八つ当たりだと
自分が悪者になるため、いかにも
配偶者の態度が悪い、
といったような感じで仕向けたいのです。

しかし八つ当たりだよといっても
被害者が逃げ出さないようであれば、

色々と攻撃したあとで
ただの八つ当たりだよ、と
罪悪感もないような口調で
ネタバラシをすることもあります。

 

たとえばニュースなどでたまに、
「ファーストフード店から出された
ホットドッグにのっていたケチャップの量が
少なくて激昂」
とか、
「なんでたかがその程度で怒るのだ?」
「怒りの沸点が低すぎる」
というような記事を見かけたりするかも
しれませんが、

あれは「わざと」相手がやっていると
確信してしまうからこそ
怒り狂ってしまうのです。

つまり、わざと自分だけに
ケチャップを少なくした。

 

ケチャップ一つで滑稽なように

感じるかもしれませんが、

心の弱い人たちにとっては

自分が攻撃されたとするには

十分に足りる事案です。

 

相手の考えは分からないはずなのに、
自他の区別がついていない人達からすると
事実を認識するより先に
そう確信してしまうのです。

もし境界性人格障害者なら
「腹が立ったから」というシンプルな理由で
攻撃を加えようとしますし、

自己愛性人格障害者なら
「相手はわざとこうした。
なぜなら~だからだ。相手はこれだけ愚かな
人間だ。しかし私はこれだけ犠牲の心をもって
やっている。そんな私にひどい仕打ちだ。
だから私が成敗してやらなくては」

と、「いかに自分が正しいのか」
という形で攻撃しようとするでしょう。

 

 

 

⚫自己愛性人格障害者の第三者への対応⚫

まず被害者が~~をしなかったから
怒り狂った、ということは
第三者にはいいません。

自分はそんな些細なことで
怒り狂うような愚かな人間
ではない。
防衛機制は、自己愛性人格障害者の
思考をそう操ります。
自分が少しでも愚かな部分がある、
という自覚を持てば生きている意味が
ありません。

ですから第三者へも、
なぜ自分は愚かではないか?
ということを示さなくてはなりません。
「こういう理由があってちょっとストレスに
感じていたら、それをあっちが怒ったと
思い込んだだけだよ、思い違いだよ。
そもそも調味料がないくらいで
怒るわけないだろ、いつも大げさに言うから
困ってるんだ」

自分が愚かだから些細な理由で怒ったの
ではなく、
そもそも怒ってなんかいなくて(相手が
愚かだから思い違いをしていて)、
相手が怒りの原因をでっち上げて(相手が
愚かな加害者なのであり)、
しかもいつも自分はそのでっち上げに
巻き込まれてしまっている…(被害者である)。

という対応をするでしょう。
そうやって第三者がその情報を
鵜呑みにすると、
いつの間にか被害者が加害者として
扱われてしまう場合もあります。

 

 

⚫被害者の特徴と反応⚫
自己愛性人格障害者にとって、
「投影」しやすい相手というのは
協調性を重んじたり、
自分に尽くしてくれたり、
自分のない人だったり様々ですが、

「自我を出すことがあまりない」
相手といえば分かりやすいでしょう。

ものすごくこだわりがあるわけでもなく、
自分がはっきりしているわけでもない。

自分は自分、他人は他人とはっきり
している人間というのは敬遠されます。

自己愛性人格障害者は
自分も他人も全部同じ存在、
として考えられる相手を
求めていますから、
自他の区別がはっきりしている人間と
いうのは接しているだけで
「あなたと私は違う存在」ということを
いちいち思い知らされる羽目になりますから
そういう相手は無意識に避けようとしますし
興味を持ちません。

支配できそうな相手であればあるほど
支配欲が疼き、それを愛情ゆえと勘違い
します。
投影しやすいかどうかというのが
選ぶポイントとして一番といえるでしょう。

被害者は被害者で
支配、束縛=愛の強さ故だと
思っていることも多く、

支配されてさえいれば認めてもらえる、
思い通りに、優等生でいることができれば
(自我を押さえ込んででも)
愛してもらえる、
それこそがアイデンティティである…
と感覚的に思い込んでいることも
あります。

そうして支配したい側、
支配されたい側(どちらも無意識といえば
無意識なのですが)の感情が合致して
惹かれあいます。

自己愛性人格障害者というのは
最初、被害者に対して非常に優しく、
まめに声かけをしたり
接することが多いです。

自己愛性人格障害者は
対象への評価がコロコロ変わるのですが、
これは対象を「すばらしく良いか」
「まったく価値がないか」の二面性で
捉えるしかないからであり、

被害者というのは
自己愛性人格障害者の期待を満たせる
(投影しやすい…つまり、思い通りに
なりやすい)人間として理想化されます。

しかし被害者は一個の人間ですから、
被害者の人生を生きます。
なんでもかんでも自己愛性人格障害者の
思い通りに動くわけにはいきませんし
何でも同意するわけにもいきません。

しかしその時点では被害者は、
「思い通りになるはずの人間なのに、
本当は何の価値もない。しかも裏切られた」
という気持ちを自己愛性人格障害者に
知らず知らずのうちに植え付けることに
なります。

自己愛性人格障害者にとっては

脱価値化、ということになります。

0か100か、白か黒か、全か無か、

そういう極端な思考の元です。

 

 

しかも彼らは答えをいいませんから、
被害者は、なぜ彼らが怒っているのか
最初は理解できませんし
自分に起こっている事柄も理解できません。

しかも自己愛性人格障害者は
とんでもなく怒り、
お前のせいだと非難してきて、
あまりにも真剣に怒っているので次第に
被害者は、本当に自分が世間知らずで
非常識な人間なのかもしれない、
愛が欠如しているのかもしれないと
思い始めます。

そして何度も繰り返されるうちに、
自己愛性人格障害者がどんな場面で
どのようにしたら怒るのかが
わかってくるようになってきて、
それらの課題を一手に引き受けようとします。

また被害者が自由でいることを
彼らは嫌います。
自由にするなとは言いませんが、
被害者だけの時間や被害者と他者の関係性というものを暗に非難したり罪悪感を植え付けます。

これだけ自分は自由なく過ごしているのに、
とか苦痛で動けないのに、とか
仕事しかしてないのに、などと言い
いかに被害者が自由きままに過ごしているかを
説くのです。
自分はひどい浮気を昔されたから
もう些細なきっかけさえ許せない、
ということもあるかもしれません。

被害者はそんなに心配なら、とか
自由を望んでいるわけではない、と
自ら自由な時間や人間関係を
切り離します。

そうして被害者は、
社会からも孤立していくことになります。

しかし自己愛性人格障害者は
ただ攻撃したいときには
些細なことでも理由にして攻撃
してきますから、
被害者はいつまで経っても
自己愛性人格障害者と
平穏な日々を過ごせる手だてが見つからず、
八方塞がりにならざるをえないのです。

 

⚫エスカレートするモラハラ⚫
モラルハラスメントというのは
どんどんエスカレートしていきます。

特に、被害者が長年逃げなければ逃げないほど
エスカレートしてゆくでしょう。

それは、自己愛性人格障害者にとって
自他の区別がますますつかなくなって
しまうのが当然としてあるからです。

被害者がもうこの人は改善されない、
逃げなければと思ったときには
支配というものは完全に完成されていて、

自己愛性人格障害者から
離れたりさえしなければ一応の最低の
安全は保証されていて、
離れたりすれば何を起こすかわからない
(周りに言うとか、実家に行くとか、
職場を訪ねるとか)。

そうなると、
被害者は、逃げるという選択肢を考えずに
我慢することでしか生活が出来なくなります。

しかし身体的にも精神的にも
疲弊しきってしまい、
動けなくなってもその動けなくなったことを
理由にまた責められるでしょう。

あらゆるストレスや重責を回避する
自己愛性人格障害者には、
それらが自分のせいであるとかは
微塵も思えないからです。
そもそも被害者が「傷ついている」
という事実を認識することが
できません。
「それよりも自分のほうが傷ついている
~」とあくまでもモラハラにより
産み出された自分の感情にしか
焦点を当てられないからです。

 


⚫逃げたあとも続くモラハラ⚫
たとえ配偶者でなかったとしても、
自己愛性人格障害者は投影できる相手なら
いつまででも執着します。
他に投影できそうな相手が見つからない
限りはターゲットに執着するでしょう。

自己愛性人格障害者が
ストーカー化しやすいのはこれが影響していて、
モラルハラスメントというのは
あらゆるストレスを避けようとする働き
ですから、
自分は逃げられるほどのことを
したということも
そこまで恨まれているということも分からず、

逃げたのは被害者が何か良からぬ原因で
自分本意の考えで逃げたのだ、
そもそも自分は離れられるほどのことは
していない、
そんな人間ではない、
なぜなら自分はこれだけ立派にこの
関係を支えていて…。

という自己防衛をしながら
「別れは認めない、だから別れていない」
という方向で近づこうとしたり、
「別れるのは仕方ないが一目だけでも
いいから会いたい」
「説明だけはちゃんとしてほしい」
と最もらしいことを言いながら、
最終的には
「一目あったらやっぱり別れられないことが
わかった、また話し合おう」とか
「説明に納得いかない」と
自宅に押し掛けたりします。

自己愛性人格障害者というのは
とにかくいろんなストレスから
自分を最大限に守ることですから、
相手に最大限に責任を押し付けることに
なったり、
本来自らが感じないといけない罪悪感も
相手に引き受けさせたりすること、
また簡単にはターゲットを離さないように
すること(投影のため、相手は思い通りになる
ものという確信から離れられない)、と
一度捕まってしまうとなかなか
被害からは抜け出せないのです。