そもそも、「境界が曖昧」とはどういうことなのか

自己愛性人格障害者も

境界性人格障害者も、

「他人と自分との境界が曖昧である」

という表現がなされます。

 

自己愛性人格障害者や境界性人格障害者が、

そうでない人たちと異なるのはここだけです。

 

たったこれだけのことで、

被害に遭われた方は想像し易いかと思いますが・・・

あれだけの対人関係の不具合を招くのです。

 

 

これは、

一つの精神症状ともいえるでしょう。

 

そもそも

境界が曖昧、だとか自分と他人の区別がつかない、

というのはどういう意味を持つのでしょうか。

 

今回は少し、このあたりについて

掘り下げていきたいと思います。

 

人というのは、

自分の考えは自分の考えだと確信しています。

 

自分が「おなかがすいたな」

と思えば

自分がそう考えているのであって、

他人がそう考えているとは限らない、

というのはよく分かると思います。

 

自分が「この人から金をせしめてやろう」と思えば

それは自分が考えていることであって、

相手が考えていることではない、

ということは容易に想像つくと思います。

 

特に問題ない人でも、

心理要素によって自分の考えが相手の考えのように

思えてくることがあります。

 

たとえば「A氏が苦手で嫌いだ」と思っていると、

自分が相手を苦手で嫌いだと思っているのに

「だって、あいつ、自分のことを嫌っているに決まっている」

と確信する・・・・などです。

 

「A氏がこっちのことを嫌っているから」

だから自分は苦手なのだ、

と理由付けをする場合があります。

 

そういう場合でも、

嫌われているかもしれないがとにかく

自分の考えと相手の考えは違う、

というのははっきり分かっているはずです。

 

自己愛性人格障害者の場合だと、

「あいつを嫌いだ」と思うことは、

「さしたる理由もなく他人を嫌う自分」

というものと直面せざるを得ないため、

そういう理由ではいけません。

 

ですから、

そういう汚い考えは、

「自分ではなく、

相手が持っている」

ということに「感覚的に」するのです。

 

ですから、

「あいつ、こっちにこんな嫌がらせをしてきた!」

と無理やり理由づけして、

嫌がらせでもなんでもないようなことを

嫌がらせだと確信します。

 

「これは、自分の考えではなく

相手の考えである。そうに違いない」と確信したほうが

自分のストレスを弱めるのに

都合がいいものは、全部相手の考えであるということにします。

 

振られるのがストレスになるなら、

そもそも振られるなんて事実自体を

考えないようにしてしまえばいいわけですから、

「自分が好き」

という気持ちを

「相手こそが自分のことを好き」

と思い込んでしまいます。

 

そのために、

ほら、あの時目が合った・・・とか

ほら考え方が一緒じゃないか・・・とか

些細な言動さえ材料にしてしまうのです。

 

精神疾患(主に統合失調症)の人は、

「考えが盗まれた!」

「自分の考えを人が頭を覗き込んでみている」

「あいつが屋根裏に隠れていていつでも

命を奪えるようにこちらを狙っている」

と言うことがあります。

 

そもそも他人にそんなことは出来ませんし、

自分にも他人にそんな働きかけは出来ないはずです。

エスパーでもなんでもなく人間でしかないのですから。

 

これはまさに他人と自分に境界がないものの

現れですが、

統合失調症の場合はそもそもそれ以外の精神機能にも

障害が出るので、

自己愛性人格障害や境界性人格障害のように

場面が限定されたり症状が限定されません。

 

自己愛性人格障害でない人たちは、

自分のもっともらしい考え・・・というのは

それらしい立派な答え、というものを

当てはめているだけなので、

 

自分は自分の考え、他人は他人の考えで

確立している、そこは誰も覗き込めず、干渉できない・・・

その人個人にしか、本当に何を考えているかは

分からないし分かるわけがない・・・

という「感覚」がないのです。

 

それが、境界が曖昧である、

という意味になります。