自己愛性人格障害者は見捨てられ不安を抱いているわけではない

「見捨てられ不安」という言葉があります。

 

すなわち、そのままの意味で

相手に見捨てられるのでは?

という不安にいつも駆られている

ということです。

見捨てられるのでは?というきっかけが

何かあってそうなるのではなく、

慢性的に、常に、自分は見捨てられるのでは?

と思うことを指します。

 

それは自分に対して無価値であるという

レッテルを貼っているので、

自分はいつ見捨てられてもおかしくない、

という考えを持つということになります。

 

自己愛性人格障害者の場合、

「自分は見捨てられるのでは?」と

思うこと自体を回避しようとします。

たまに自己愛性人格障害者自身が

「どうせ他の人のところに行って

幸せになったほうがお前はいいんだよ」

と口にすることがありますが、

それは本心で言っているわけでは

ありません。

 

被害者が本当に

誰か別の人のところに行こうものなら

攻撃しますし、

そうでなくてもただ別れたい、というだけでも

その別れを認めようとはなかなかしません。

「自分は見捨てられる」ということを

考えることすら出来ないのです。

なぜならそれはストレスになるからであり、

「自分は見捨てられるような人間」

ということを認めるということになります。

 

もちろん自己愛性人格障害者自身も

心の奥底は自分は無価値であるという

思いにあふれていますが、

それを認識はできません。

ですから「見捨てられ不安」というものは

自己愛性人格障害者は抱けないのです。

「相手が自分を見放そうとしている」

ということすら認識できなくなって

しまっている場合が大半ですから、

別れたいという相手の気持ちが

まったく理解できずに、

いつまでも別れを認めない、

別れという意味がわからない、

自分は別れたいなどとは思っていない、

と自分の気持ちを一方的に

相手に押し付けることになってしまいます。

 

自己愛性人格障害者は見捨てられ不安を

抱いているのではありません、

たとえ自己愛性人格障害者が

「どうせ自分を見捨てるんだろ、

早く捨てたほうがいいよ」

なんていったとしても

本当に自分を捨てるなどとは微塵も

思っていませんし、

そもそも人を見捨てようとするなら

「それって倫理に反しているよね」

と責める口実にするのが自己愛性人格障害者なのですから、

「自分を見捨てるはずがない」と本心では

思っているわけです。

 

自分が一緒にいるほうが都合がいいのに、

相手はそうでないなんて

他人も自分も考えは一緒だと思っている

自己愛性人格障害者にとっては

本当に意味不明の出来事なのですから。