学歴にこだわる

自己愛性人格障害者は

学歴に拘ります。

 

しかし学歴に拘るから、

必ず高学歴になるという意味ではありません。

能力が低かったり、

自己愛性人格障害者にとって学びの環境が

自分が避けたいようなストレスのかかる場所だったり

すると、

自己愛性人格障害者は学歴を

高めることよりも

そこから逃げることを優先します。

 

しかしそれでも、

自己愛性人格障害者は学歴にこだわり

続けます。

どういうことかというと、

「望んだ学歴は獲得できなかったが」

自分の学歴をいかに高く見せるか?

それが無理ならいかに優秀な成績を

おさめたことにするか?

あるいは高学歴など

何の意味もないことを、

あるいはただ学歴が高いだけの人間を

いかにして貶めてやるか?

自分は高学歴になれなかったわけではなく

選んで今の道を進んだのだということを

どうやって説得力があるように

伝えるか?

 

つまり、獲得できなかった

「高学歴」というものに代わるありとあらゆるものを

証明しようと躍起になります。

 

学歴が高ければ

自分の学歴をそのまま自慢することが

多くなるでしょうし、

それが出来なかったときは

学歴などにこだわるやつは馬鹿だ・・・・と

高学歴の人間を罵ることもあるでしょう。

けれども

学歴にこだわるやつは・・・

と何度も言っている時点で、

その自己愛性人格障害者も

学歴にいつまでもこだわっているのです。

 

ですから自己愛性人格障害者の場合、

学歴や成績にコンプレックスを

抱いていることが非常に多いといえます。

もちろん自己愛性人格障害者にとって

学歴はアイデンティティともなりえますから、

すばらしい能力の高い自分自身に

なるために、

努力を惜しまずひたすら

高学歴を目指す人間が多いのも確かです。

 

しかし、自己愛性人格障害者が

頂点を極められるわけではありませんから、

自己愛性人格障害者よりも好成績を収めていたり、

自己愛性人格障害者よりも学歴が高かったり

する人間も当然としているわけです。

 

そういう人たちと比べて圧倒的に

自分の学歴が劣っていたりすると

自己愛性人格障害者が無意識に

そう判断すると)、

今度はそれらの人間に対して

どう貶めようか?

どうやって評価を落とそうか?

ということばかり考えます。

 

個人の評価を落としたり、

その学校の評判を落としたり、

いろいろとするでしょう。

 

そういうことで、

自分と相手の間の学歴に差はない、

というような態度をとったり、

むしろその学歴の高さは無意味であり

汚い力で得たものである、

というような言い草になったり

することもあります。