なぜ、高学歴に拘るのか

人は、知識欲や探求欲があるので、

学歴は高いほうがいいとか

いい大学に入って研究したいとか

そういう想いを抱くのは自然なことでもあります。

 

ただ、世の中には異常に高学歴に

拘る人達もいます。

よりいい大学に、よりいい成績で、

よりいい就職先に。

学歴だけでなく、職歴にもこだわる人達もたくさんいます。

「ただただ知識を深めたい」というよりは

まるで、いい大学に入ること、箔がつくことが最終目的で

あるかのように。

それが人生のすべてでもあるかのように、

一心不乱に「学歴だけ」に拘ります。

 

つまり、学歴コンプレックス・職歴コンプレックスを

持っていて、それを解消しなくては自分は

価値がなくなるかおかしくなってしまうかのような状態です。

 

学歴に拘ることの一つに、優秀な成績を収めて優秀な大学に

行くことを自分のコンプレックスを埋める「代替手段」として

用いているから、という理由があります。

 

家が貧乏だったから、とか

自分はいじめられてきたから、とか

そういうみじめな自分をどうにかして埋めたい、

そこの部分は変えようがない(あるいは変える気力がない、

コンプレックスであることを意識していない)

から他の部分で補おうとする働きです。

 

そしてもう一つは、

「親に言われたから」。

親の期待にこたえなくてはと思う一心で、

ひたすらに猛勉強するパターンもあります。

それはかなり強迫的であったり、親の期待に応えないと親に

子供として認めてもらえないという卑下した感情だったり、

自分のない人の親からの刷り込み(「いい大学に行かないと

ダメだよ」等の言葉)であったりします。

 

親に言われたから行く、とか

みんなが目指しているから行く、とか

そういう理由だと、自分が薄い、自己形成があまり

うまくいっていない、ということにもなります。

自立心がほとんど育たずに、自分で選択することができず、

誰かの選択にゆだねたほうが楽であるという生き方になりがちです。

こういう人達は、自分が流されやすい性格であることは

自覚はしていますが、かといってどうしたいという希望があるほど

自我が強くもなく、どうしていいのかわからない状態よりは

流されるほうを選びがちです。

 

 

そしてこれらの理由よりももっと重いのが

「自分自身がなさすぎて、統合されていない人達」です。

つまり、自己愛性人格障害者や境界性人格障害者のような

人達ですね。

こういう人達は、自分や他人というものを

「自我が統一された、一個の人間・存在」として

捉えることができません。

 

「部分・要素」でしか人を見ることができなくなってしまいます。

 

ですから、

他人が役に立たない部分が見えると一気に興ざめしたり、

自分自身に一つでもミスがあるようなら自分そのもの(全体)が

汚れてどうしようもない欠陥人間のように思えてしまうので

それを必死に回避しようとします。

自己愛性人格障害者だとモラハラという思考・行動になりますし、

境界性人格障害者だと自己愛性人格障害者の

モラハラシステムさえも働かずに一気に暴力的になることのほうが

多いでしょう。

 

 

 

 

そして、この「部分・要素でしか人を評価できない」

というところが重要な部分で、

自己愛的要素が高い人だと、高学歴である自分であれば

人間として価値があり、尊いと考えます。

つまり高学歴であればあるほどそれだけで自分は価値が高いのだ、

高くなるのだと妄信しているのです。

 

高学歴というのは、本来個人を作る一つの要素でしかありません。

成績とか学歴とかのカテゴリの中でどうか、という話で

しかないのです。

学歴が高いからと言って、個人が勝手に優秀になったり

偉くなったりするわけでもなく、

人間としての価値が生まれるわけでもありません。

 

特に人格障害などなく、結局のところ親に刷り込まれていたり

自分が「高学歴になれば幸せになれるのだ」と信じていたから

自分が望む大学に入った、という人は

現実がそのうち見えてきますから、その現実に辟易として

大学をやめたり何もかもやる気を失ったりします。

 

当然の如く、彼らは「人にそういわれたから」やったのに、

結果がついてこないし何を目指していいのかもよくわからない、

という形で勉強や学歴に拘ることをやめます。

 

自分のアイデンティティの不足を補うために

学歴に執着していたという人も同じです。

学歴も点数もそれ以上でもそれ以下でもなく、

それ自体がアイデンティティを補ってくれるはずもないのです

から。

 

しかし、自己愛性人格障害などがあって

現実が見えていない(直視する力がない)ような状態になると、

「いや、自分はまだまだ発展途上だからうまくいかないだけだ」

「周りの人間が役立たずすぎてうまくいかないだけだ」

「環境が整っていないから何も進まないだけだ」

「こんなに素晴らしい自分が成功しないはずはない」

とひたすら自己の肥大化が進み、

それが人生を終えるまで続きます。

 

そしてそのような人は、実際に高学歴でなくとも

「高学歴を装う」ことで価値のある自分自身を

作り出そうとする癖がついていきます。

 

優秀な成績、エリートへの階段。

もし、現時点であまりにもそのストーリーにそぐわないような職業に

ついていたら、そこからの転落劇もそういう人達にとっては

「人の妬み・恨みにより本来の座から陥落した、

可哀そうな自分」というものを演出するのにうってつけでしょう。

「本来ならば、そういう才能を持っている」ということになれば

実際に高学歴でなくてもいいからです。

そういう人達にとっては、「自分自身が価値のある人間だと

思い込めること」のほうが大事であって、

実際に高学歴になることが重要なわけではないのですから。

 

自分が高学歴に拘っている、優秀な成績に拘っているとき、

より優秀な成績をとる人間というのは

自分の「より価値が高い位置にいく」可能性を阻害する

敵でもあります。

ですから、ただのライバルというよりは

明らかな恨みを持ってしまう人もいるでしょう。

 

しかし、自己愛性人格障害者の場合、それらのストレスの大半は

パートナー、交際相手へとぶつけられます。

もしパートナーが逃げ出して、自己愛性人格障害者が

その支配を再構築しようとして勉学がおろそかになり、

留年・退学するような羽目になったら

それは間違いなくパートナーのせいにされるでしょう。

自分の価値を貶めた加害者として、です。

 

このように、高学歴というのはステータスというわけではなく、

アイデンティティの構築がうまくいかなかった人にとっては

アイデンティティそのものとなりえる場合が

あるのです。