どこまでも冷酷である

自己愛性人格障害者は冷酷ともいえますが、

冷酷というのは優しさを感じられない、

とも意味します。

 

自己愛性人格障害者の場合は

優しくしないというよりは

優しくできないということになります、

つまりターゲットのためを想って

行動できないということです。

ターゲットだけでなく第三者に対しても

優しくはできません。

かといって、優しいと思われる行動が

できないわけではないのです。

 

反動形成といって、

自己愛性人格障害者は自分が憎いと感じて

いる相手でもとにかく優しくすることはできますし、

持ち上げたりは出来ます。

しかしそれはそれがそのときに

必要だからやっているだけであって、

何も自己愛性人格障害者が優しいからとか

相手に対して何か情を感じているから

優しくするわけではないのです。

自己愛性人格障害者というのは

そういう意味で冷酷に感じますが、

選んで冷酷になっているわけではなくて

人のために考える余裕がありません、

 

つまり自分がそのときに

冷酷な人間ではないためには

どうすればいいか?ということを必死で考え

「自分は冷酷ではない。お前らのほうが冷酷だ!」

と自分は思いやりがあり優しい人間であるということを

アピールしなくてはならないため、

自分は冷酷ではない・・・ということを

証明するために相手を冷酷に突き放すという

矛盾を抱えてしまいます。

 

自己愛性人格障害者にとって、

被害者自身はものすごく冷たく

人間味のない人間に見えてしまうのも

確かです。

なぜなら自己愛性人格障害者自身が

人間味がないので、

そもそもそれを投影している相手が

被害者なのですから、

人間味がある人間に感じられる

はずがないのです。

 

しかも自分の危機的状況を咄嗟に救うべきなのに、

それもせず、最初から危機的状況に

陥らないように対処すべきなのにそれもせず、

被害者はのうのうと生きています。

それが自己愛性人格障害者にとっては

許せず、本当に温かみのない人間として

被害者のことを捉えてしまうのです。

 

その考え自体に、

自己愛性人格障害者がいかに他力本願であるか

というところが垣間見えると思います。