自己愛性人格障害者は謝らないという誤解

自己愛性人格障害者の謝罪に対する誤解

自己愛性人格障害者は

自分がいつでも一番だからこそ、

謝る必要もないし謝らない、というような

誤解を招く表現が見られることがあります。

 

それは大きな間違いで、

自己愛性人格障害者でもなんでも、

謝る必要があれば謝りますし、

謝る必要がなければ一言も謝りません。

 

それは、

自己愛性人格障害者が「無責任な言葉」を発することが

非常に多くあるからともいえます。

 

自己愛性人格障害者にとっての「謝る必要」とは

ところで、自己愛性人格障害者が「自分が一番」と

思っている、というのは、

もちろんながらいわゆる劣等感・・・劣等コンプレックスに

対してバランスをとるための優越コンプレックスに

他なりません。

つまりなんの理由もなく「自分が一番」とか

自分が好きすぎて自分が最も優秀であるという考えに

憑りつかれているわけではなく、

根底には「自信のなさ、自分自身のなさ、自分のなさ」

があります。

 

自己愛性人格障害者が謝るときというのは、

ただ「謝る」という行為が

相手をコントロールするのに手っ取り早そうだ、

と思ったときです。

 

それ以外にも、威圧すれば相手がさっさと

予想通り、思い通りの行動をしてくれるのであれば

謝る必要はありませんが

それで相手が思い通りにならないときに

謝罪というのは非常に手っ取り早く、

相手の良心の隙をつけて思い通りに動かしやすい手段です。

 

 

威圧で効果がない場合は大体アクティングアウト、

つまり攻撃という形をとりやすいですが、

身体的な攻撃や直接的な攻撃がしにくい場合、

攻撃に対する反応が分かりにくい場合、

コントロールできているという実感がない場合など

今度は謝罪という形をとりやすいです。

 

また、謝罪がきかない場合は

謝罪の上級である「土下座」や「泣き落とし」になります。

どれも、「ここまでさせているのだから、

思い通りになるべき」という脅迫ともとれます。

そして最上級の謝罪は、「死んでお詫びする、と発言する」とか

そういった類の謝罪・脅迫に移り変わっていきます。

当たり前ですが自己愛性人格障害者がより深い反省や自省を

すれば贖罪の程度の段階が変わっていくのではなく、

「謝る」という行為が効かなかったら「土下座、泣き落とし」

「土下座、泣き落とし」が効かなかったら「死んでお詫びする」

とかそういう単純な話です。

 

どういう方法をとったとしても、自己愛性人格障害者に

とっては一緒なのです。 

 

パートナーや交際相手が「別居した」

「別れ話になった」場合に、

「ターゲットを引き戻すために」必死に謝罪をしたりすることが

多いのはこのためです。

このとき、ターゲットも物理的な距離を保てていると

特にこういうパターンになるでしょう。

そしてターゲットもこういう時は精神的に強気なままで

いられることもありますから(絶対に今度こそもう元に

戻ったりはしない!という強い決意を持つなど)、

簡単な謝罪では応じないものの、

相手がどんどん謝罪のレベル(=脅迫のレベル)を上げていき、

泣いてわめいて自分の罪を反省するような様子を見せるのは

必至です。

 

自己愛性人格障害者はどちらにしても

相手をコントロールすることが最優先ですから

どういう謝罪だろうがどうでもいいのですが(後から

土下座させた、と相手の悪のせいにしてしまえばいいことですから)、

されたほうは「ここまでされると・・・」と良心を

突き動かされてしまいます。

 

 

必死に「お前しかいないんだ、もうしない」と泣きつかれては

情に引っ張られてまた舞い戻ってしまう、というのは

明らかに相手に「泣きつけば絶対にコントロールできる」という

ことを見抜かれています。

 

ですからまた同じようなパターンに嵌り、

ターゲットが離れようとするとまた泣きつき・・・と

いう状態になるのです。

 

自己愛性人格障害者が謝らないとき

ところで、自己愛性人格障害者はなぜ

謝らないというイメージがついているのでしょうか。

 

それはナルシシストの一般的なイメージが

人に謝るようなイメージもないから、というのが一つ。

 

そしてもう一つは、自己愛性人格障害者は

必要があれば簡単に謝罪と前述しましたが、

つまり必要がないと判断すれば(そんなことをしなくても

相手のことを思い通りにできると判断する)、

謝罪はしないからです。

 

そして、謝る必要はないなと判断する機会も

確実に増えていきます。

つまり、最初は謝罪という手段をとっていた

自己愛性人格障害者も、徐々に謝罪という手法を

とらなくなってくるという意味です。

 

ターゲットが彼らの独特の理屈に言いくるめられて

「私が悪いんだ、ごめんなさい」と度々謝るような人だと、

自己愛性人格障害者は最初から謝ることをしません。

自分の言っていることに反抗せず、さっさと

思い通りになるのであればいちいち謝罪の必要は

ないからです。

 

そして、自己愛性人格障害者が最初は謝罪をしていた

場合も、どんどん謝罪でコントロールするというのは

なくなっていきます。

 

基本的に、自己愛性人格障害者にとって

謝罪というコントロールはまどろっこしいし

面倒くさいものです。

どう考えても自己愛性人格障害者が悪く謝らないといけない場合でも

謝らずに済んだ場合(あるいは威圧すれば思い通りになった場合)、

彼らはそれをすぐ学習します。

「謝罪しなくても、思い通りになる」。

 

そういう段階を何度も経て、どんどん謝罪というものが

少なくなっていくのは事実としてあるのです。

 

基本的に、謝罪をするかしないかによって

自己愛性人格障害者を見抜くというのは

非常に難しいことです。

意固地な人は謝らないでしょうし、

いちいち問題をすり替えてくるかもしれません。

 

謝罪したことを後々帳消しにしようとする

(本来は謝りたくなかったけど事態を収拾するために

自分が大人になって謝ったのだ、と言ったりする)、

お前はあの時無理やり土下座させたから仕方なく

謝罪したのだと相手のせいにしたり強要されたことにする、

など謝罪とは一転した態度をとるようであれば

注意が必要でしょう。