自己愛性人格障害者を救えるのは、ターゲットではない

ターゲットというのは、

いかにして自己愛性人格障害者の

孤独をいやすか?

モラハラ思考から解き放とうか?

ということを必死に考える生き物ともいえます。

 

それがターゲットがターゲットたる所以であり、

そういう特性を持つ人達です。

 

しかし、自己愛性人格障害者を

救おうとするその様子もまた、

ターゲットが有能感を持とうとする・

あるいは持っている証拠ともいえます。

 

自己愛性人格障害者が自分のモラハラ思考を

どうするかというのは、

彼らが決めることです。むしろ、彼ら(深層心理にある)

にしか決められません。

 

ところが、ターゲットというのはその被害者気質の

程度が強いほど、

「結婚生活は、こうあるべき」

「パートナーに攻撃なんて人のやることじゃない」

というような信念のもと、

そして「愛があれば、きっとわかってくれるはず」

というような妙な確信のもと、

自己愛性人格障害者に挑んでいきます。

 

自分がきっと治して見せる、と考えるのです。

 

しかし自己愛性人格障害者にとって、

一番の攻撃者は間違いなくその「ターゲット自身」なのです。

ターゲットがいくら普通に生活していても、

そのような仕組みになるのがモラハラ思考というものです。

 

ターゲットは、彼らの鏡にしかすぎません。

そしてその鏡をより鮮明にするのが

先ほど述べた「愛さえあれば、なんとかなる」という

有能感です。

 

その有能感は、確実にモラハラの栄養素になります。

その「愛」とやらでターゲットが自己愛性人格障害者に対して

一生懸命になればなるほど、

それすら彼らは利用価値があるものとしてみなすからです。

 

つまり、愛があろうとなんだろうと、

ターゲットはターゲットとしての利用価値しかなく、

その利用価値というのは「恨みを晴らそうとすること」

とも似ています。

それは、過去に自分が受けてきた不当な扱いへの恨みであり、

恨みを何度攻撃して晴らそうとしても

全く消えない恨みです。

 

その恨み自体を「愛」とやらで消そう、という

有能感というのは

愛を妄信している非常に危険な思想ともいえます。