愛はそこまで万能ではない

自己愛性人格障害者を

変えたいからと、

「愛があればきっといつか

相手が分かってくれる!」

という想いにかられる人も

少なくはありません。

 

そしてそれは、

「ラッキー」で

他の誰かを変えることはできるかも

しれません。

 

ところが自己愛性人格障害者を

「愛」という保証のないもので

変えることは難しいでしょう。

 

特に愛などというものは

モラルと同じで、

「愛があるなら⚫⚫しろ」と

余計にモラハラの格好の

餌になりかねません。

 

そして被害者がそれを真に受け、

「自分の愛をもっと証明しなくては」

「私の愛が足りないのだ」

「愛を発信する私そのものが

間違っていたら愛も間違っている

ことになる、私が変わらなくては」

という精神状態になっていけば、

自己愛性人格障害者の思うつぼです。

 

そもそも人を変えるために

愛を伝えていくというのは、

そもそもはその個人が好きだから

愛しているのであって、

愛を強く示せば示すほど、尽くせば尽くすほど

その個人を愛している…とは限りません。

 

見返りを求めるために

尽くす場合もあるからです。

自己愛性人格障害者を見ていれば顕著でしょう。

これは愛だ!と強くいいながら、

まるで愛しているとはいえない

言動をとるものです。

 

被害者は被害者で、

もっともっと愛を示さなくては、

となっている段階ですでに

愛からの行動ではなく

相手の反応を変えるための愛に

刷り変わってゆきます。

彼らの愛はまさにそんな形でしょう。

相手をなにがなんでもコントロールするために

愛を使うのですから。

 

自己愛性人格障害者は

愛を知らないのだから

愛を示せばきっといつか響いてくれる、

というほど

愛はなんでもできるわけではありません。

 

愛を盲信していると、

自分が際限なく働ける気になってきますが、

そもそも愛の循環がなされないのですから

いつかは枯渇します。

疲弊しきったときにはもう遅いことも

多いのです。