他人の真似をする

「取り入れ」という心理防衛機制があります。

この取り入れというのは、かなり自然な形・そして無意識的な形で

その個人に浸透していることがよく見られます。

 

まるで他人の真似をしているように感じられることも

多いでしょう。

というのも、容姿をそっくりそのまま自分の中に取り入れる、

それだけでなく持ち物を他人のものとそのまま同じようにする

(まるで真似されたほうが何と思うか考えてもいないように)。

誰かが発した信念を、なんの疑いもなく「その通りだ」と

まるで自分も同じように考えていたように感じ、

それを自分の考えとして発信する。

そういうこともあります。

 

「他人の信念を、まるで自分発信のものかのように扱う」、

というのは自己愛性人格障害者に目立つことですが、

取り入れ自体が自己愛性人格障害者に顕著というわけでもなく、

単に努力家で、人を害することを考えてもいないような個人が

こういう取り入れの傾向を見せることもあります。

 

ですから、そういう知人がいつの間にか自分の持ち物と

同じようなものをどんどん買っていて、

それがいつの間にか増えているような状態だと

なかなかその個人に「真似をしないで」といえない状態に

なることもあります。

 

そしてその個人も、取り込みはごく自然に行われるので、

意図的に真似をしたとか人のアイデアを奪ったとか

そういう意識はまったくありません。

相手が持っていたからいいなと思った、という感情から

自分を真似をした・・・というのが事実なのですが、

「いや、自分はもともとこれをいいなと思っていた」

というような考えのもとで自分はこれを買ったのだ、

と考えていたりします。

 

アイテムではなく思想も同じように、

「誰かの考えをいいな、確かにその通りだと思った」というよりは、

「そもそも自分も同じことを考えていて、

あの人の発信がたまたま先だっただけ」

というような思考過程のもとで、

他人の思想をまるで自分がもともと持っていた思想のように

感じてしまいます。

 

自己愛性人格障害者であろうと、

そうでなかろうと、取り込みはかなり無意識の中で

行われるものです。

 

持ち物や思想で人は測ることはできませんが、

誰しも自分の思想やアイデア、持ち物を次から次に

真似されることは嫌います。

それ自体がアイデンティティにはなり得ませんが、

好みも、持ち物に対する思い入れも、持ち物を選ぶ特性も、

基準も、その思想に至った過程もすべて、

アイデンティティを構成する要素ではあります。

 

それらをすべて真似されることは、

それまでの過程を台無しにされている気分にもなるでしょうし、

蔑ろにされている気持ちになることもあるでしょう。

自分の個性そのものを消そうとされているよう、

乗っ取ろうとされているようで

気味が悪い人もいるでしょう。

 

取り入れをする側というのは、

アイデンティティの確立がなされておらず、

その部分を他人を取り込もうとすることで

補正しようとすることが多いです。

 

ですから、その個人が感じる「アイデンティティを乗っ取られようと

しているような気味の悪さ」という

所にまで配慮できないことが多いですし、

そもそも無意識で行われるものですから

相手がどう思うかという以前に自分でも

「何かを取り込もうとしている」ということさえ

意識できません。

 

 

いわゆる流行に乗る、賞賛されている思想に乗っかる

というのも同様で、

「自分がいいなと思ったもの」という認識で

それを利用することは問題はないのですが、

「それは自分自身の発信した思想であり、嗜好である」

 というような観念にすり替わってしまうと、

 

流行に乗らないよりは乗ったほうがいい、

何かを知らないよりは知っていたほうがいい、

センスがないよりはあったほうがいい、

信念がないよりはあったほうがいい、

というような単純な・・・しかしアイデンティティが確立

していない人間にとっては非常に重要な

「行動のポイント」になってしまいます。

 

本来個人にとってはどうでもいいようなものでも、

「これをやったほうがいい」というような世間の論調に

簡単に(何度も)押し流されてしまう、

 ということです。

「これをやったほうがいい」

「これは持っておかないと恥ずかしい」という他人の考えを

そのまま自分のもののように感じ取り、

「これはやっておいたほうがいいよ、なぜなら・・・」

「これは持っておかないとおかしいよ。なぜなら・・・」と、

さも自分の意見のように、他人の意見をそのまま

持ってきてしまいます。

それなのに、それらが他人の意見だとは思わないわけです。

取り込んでしまっている時点で、

自分自身の意見だと思い込んでいます。

 

取り込みが多ければ多いほど、

自分自身の意見ではなく他人の意見をそのまま

鵜呑みにし、それを自分自身の意見にすり替え、

ステレオタイプな生き方しかできなくなってしまい、

その観念について問われても自分の意見を

述べることができません。

 

その取り入れたいものは

自分にとってアイデンティティの拡散により

生まれる生きづらさや不安などを

出来るだけ軽減させるためだけに

得るものですから、自分の好きとか嫌いとか

どういう嗜好・考えでそういった思想を選んだとか

そういうことまで考えていられません。

 

取り入れたいものが社会通念からしても「立派そう」、

あるいは「素晴らしそう」なものであり、

大衆が好みそうであればなんでもいいのです。

そこに、自分の都合(それを取り入れることにより、

何か合理化ができる)が合わさればなお良いです。

 

隣にいる友人のアイテムと同じものをなんでもかんでも

欲しがるのであれば、

アイテムが好きだから欲しいのではなく

「その友人のセンスそのものを欲しい」ということでもありますし、

取り入れている時点でその個人は

「この友人と同じセンスを持っている・

むしろ自分自身のセンスである」

と思っている可能性が非常に高いです。

 

何かの思想を積極的に取り入れているのなら、

「自分はそういう人間である」と思い込みたいからこそ

取り入れている場合もありますし、

そういう場合はその思想を何度も何度も他人に聞かせたり

(その他人がその話は聞き飽きたかもしれない、とさえ

思わずに)、

「その思想を持ち続けるに見合っている自分」という

幻想に浸りたいからこそそういう思想を取り入れる、

という言い方もできるでしょう。

 

 

 

 

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