自己愛性人格障害が治らない理由

自己愛性人格障害者に関するサイトを巡っている人の中には、

「上司がもしかしたら自己愛性人格障害者かもしれず、

パワハラ(モラハラ)を受けて困っている」

という人は、

「夫(妻)がどうやら自己愛性人格障害者らしいので、

どうにかして治したい。

何か医療関係者でも知らないいい方法が民間のサイトに

落ちているのではないか」

「治るのはもう諦めたけれど、

ではどうしたら傷つかずに一緒に生活できるんだろう」

・・・という幾多の事情により情報を集めているパターンも

あるでしょう。

 

興味本位にどういう実態があるのか調べるよりも、

いろんなサイトを、丹念に、

丁寧に回って読み込む人がきっと多いはずです。

 

それは、被害者や困っている人の

「とにかくモラハラの辛さから

解放されたい」という想いがそれだけ強いということです。

むしろ、治すための執念、あるいはモラハラから解放されるための

執念のようなものでもあるでしょう。

 

第三者は、すぐに「なぜ?」と考えます。

なぜ、そんな人のそばにいつまでもいるのか?

だったら離れればいいのでは?と。

配偶者なら「まずなんでそんな人を選択したの?」と

疑問を抱かれるかもしれませんし、

職場であれば「別に一生一緒にいないといけないわけでも

あるまいし、なぜさっさと辞めないの?」と

言われることもあるでしょう。

 

社会とはそういうものです。

そして離婚したら離婚したで、「さっさと離婚するんだなあ」

「子供がかわいそうだなあ」と言われ、

職場を離れたら離れたで「さっさと仕事を辞めちゃうんだなあ」

「勿体ない」と言われるかもしれません。

それも、「社会とはそういうものだから」としか言いようが

ありませんね。

特にモラルというものに非常にうるさくなっている昨今、

「社会」というぼんやりした実態のないものが

個人を責め立て、「モラハラ的」になってしまっています。

 

同じくモラルに五月蠅い被害者であれば、

「こんなことで別れるなんて!」

「いや、仕事はやめたくない。責任を放棄するのは違う」と

自分で自分を袋小路に追い込んでいくでしょう。

 

被害者は、「大きな変化」「モラルのない行動」を嫌います。

そういう人ほどモラルハラスメントでとんでもない傷を負いながら、

それでもこれに耐えればきっと道が見えてくると

思っていたり逃げるという選択肢は後回しにしたりします。

 

加害者の自己愛性人格障害が治らない理由というのは

ここにあって、

つまり、ターゲットというものが何としてでもそばに

いて、モラハラの標的になってくれるので、

治す(自分の異常性に気付く)必要がないのです。

 

だって、その鏡はどれだけ責任転嫁の対象にしてもストレスのはけ口

にしてもどうやら自分のそばから

離れられないようなので、

いちいち治す必要がありません。

 

自己愛性人格障害者のモラルハラスメントは、何度も

このサイトで伝えている通りに「自分を守る盾」です。

防衛機制がただただ過度になりモラハラという様相を

呈しているだけであって、自己愛性人格障害者は

その仕組みに気が付いていません。

 

ただただ自分が優越感に浸りたいがため、

自分が「思い通りにならないストレス」に耐えられないがために

相手のミスやささいな欠点が気になり、むしろどうにか修正

させないと気が済まなくなり、

そんな思いにさせるターゲットは悪意があり意図的に

やっているのだと信じるしかなく、

それゆえ被害者に対する攻撃性を一層強めるしかありません。

その繰り返しです。

 

そうやって自分の代わりに傷を負ってくれ、

自分の代わりに責任をとってくれるような人がいれば、

いちいちモラハラをやめる必要などどこにもないのです。

 

それを、「治せ」と言われても、

「ここまで人を苛つかせる天才であるお前のほうが

異常だ、人を異常者扱いして、

お前こそ治療してこい」という思考過程をとるのはごくごく

自然なことです。

 

 

 

「愛」さえあればなんとかなるのでは?

自己愛性人格障害者が「お前のために治したい」と

言っているのだからそれは治療に向けた一つの

指標になるのでは?と感じる人もいるでしょう。

 

実際に、「お前のために」と言っている時点で、

その自己愛性人格障害者は自分のモラハラ思考に

まず気づいていないといえます。

気づいていたら、「お前のために」とはとても言えません。

なぜならシステム上「誰かのために」という観念がないからです。

モラハラ思考に気が付けば、

自分が「誰かのために」何かをしようとする力がまずない事に

気が付くのが先になります。

そして、「誰かのために」と叫びながら、実は自分のことしか

考えることができていないことにも気が付きます。

 

モラハラの自覚というのは、

自覚したからといって、急に「ああ、自分はなんて

酷いことをしてきたんだ。これからは相手のために

尽くそう!」などという魔法が解けるかのような

寛解の仕方をするわけではありません。

 

自己愛性人格障害は「病」ではありませんから、

自覚したところで急にそのモラハラ思考がなくなる

わけではないのです。

自己愛憤怒も現れますし、責任転嫁も現れます。

基本的な性質は何も変わりません。

 

自分のモラハラ思考と、普通の人の神経が何が違うのか?

と自問自答することもあるでしょう。

自覚するということは「自覚しないほうが損」、

つまりモラハラ思考でいたままのほうが損をすると

思った時点での自覚になりますが、

当然ですがモラハラ思考のままであれば自分が傷つかずに

済みますし、周りが責任もとってくれますし、

攻撃性も隠さずに済みますから何よりも得です。

 

そんな状況よりも、現実(の自分)を見ないほうが

ずっと損である・・・・、と感じる場面がなくては

ならないのですが、ターゲットがいる以上は

文字通り鏡となりそんな自分を直視する瞬間などない

(むしろそのためだけにターゲットがいるのですが)

ですし、

ターゲットがいなくなろうとしても粘着すれば

また戻ってくるようであれば粘着すればするほど

鏡を失わないで済むと学習します。

ターゲットが実際にいなくなっても、

そういう「被害者」であり「自分から望んで

自己愛性人格障害者のもとを離れない」人間は

ゴマンといるのですから、

やはりモラハラ思考を治さなくてはと考える機会を生むよりは

そちらのほうがずっと効率的であり労力もかかりません。

 

鏡としての資質があれば誰でもいいのです。

「モラルハラスメントにより、明らかに傷ついている

様子を見せる(他人の傷は分かりにくいが、この反応は図星なんだろう、

やっぱり自分の言っていることは正しいのだ。

それともこいつは被害者ぶろうとしているのか?)」とか

「思い通りの反応・行動をしてくれる(コントロールされることに

寛容でありむしろ自分から支配されにくる)」とか

「反抗してくる(正義である自分に逆らったという

大義名分ができる)」

というような資質が増えるほど、鏡としては優秀です。

だからこそ「アイシテイル」ということができます。

ただ、それはモラハラ思考ゆえですから、

モラハラ加害者でなくなれば被害者に対するそういう

「アイシテイル」もなくなるわけです。

 

被害者の被害者資質を愛している(と思っている)わけですから、

被害者そのものを見て愛しているわけではありません。

 

その「愛」でもいいからほしい、なんでもいいから

愛してほしいという被害者がいるとするならば、

被害者自身もその自己愛性人格障害者に執着しますから、

その自己愛性人格障害者は一生モラハラから離れることは

できないし、逆もまた然り、ということになります。