束縛する心理

束縛する心理とは

自己愛性人格障害者の支配を語るとき、

束縛という行為は切っても切り離せないくらい

よくあることです。

 

彼らの場合は行き過ぎた束縛になり、

被害者は行動を制限されたなか(というよりは被害者が

自ら行動範囲を狭めるようにコントロールされるのですが)

ほぼ監視状態になってしまうのですが、

普通の付き合いでも「束縛」というものが

存在します。

 

嫉妬との関連性

束縛されることの原因というのは、まず嫉妬が思い浮かぶと

思います。

嫉妬したほうが、嫉妬されるほうに対して執着を見せる。

これが束縛を説明するのに非常に分かりやすい説明ではあります。

つまり、嫉妬していて相手の行動が不安で、ほかの人との接点があると

そちらへ行ってしまうのではないか?と思うことで疑心暗鬼になり、

嫉妬心から束縛する。

これは一見理にかなっているようですが、

実際にはそうとも限りません。

 

例えば自己愛性人格障害者の場合は、

怒る理由があるからこそキレまくるのではなく、

キレたい(ストレス回避とストレス発散のために)から

怒る理由を作り出す(あるいは相手の粗を探し出す)

ということを何度も説明してきました。

 

束縛に関してもこれと同じで、

束縛する理由があるから束縛するのではなく、

束縛したい(管理したい、支配したい)から

束縛する理由を作り出したり探し出す、と言ったほうが

正しいでしょう。

 

束縛する理由を作り出す、という行為が

つまり「嫉妬」ということであり、

何か心配事があるから嫉妬するとか相手を愛していて

嫉妬するとかそういうことではなく、

ただただ束縛したいという気持ちが強すぎる故、

それを強い嫉妬心に置き換えている・・・

ということになります。

 

その強い嫉妬心に対しても、自分が正しいのだということを

示すために、

相手が浮気しているのではないか?

あ、異性と喋っている。あ、今笑いかけた。

きっと特別な関係を持っているに違いない。

 

と、どんどん自分の中だけで嫉妬する理由を

膨らませていきます。

 

そして被害者に対して、

「あんな風に男(女)にいい顔していると

そんな人間なんだと思われるからやめたほうがいいよ」

「なんか、誰にでもそういう風に対応できてしまうんだなって

悲しくなった」

と言ってしまえば、被害者も「嫉妬しているんだな」と妙に

納得し、今後はそういう誤解を招くことをしないでおこう、

という風にコントロールされがちです。

 

被害者が、相手から好かれたいと思っていると

なおのことそういう風になるでしょう。

 

ところが、自己愛性人格障害者の場合は

たとえ被害者が異性との関係性を完全に断とうとしても、

全く浮気している様子を見せなかったとしても、

彼らの機嫌がいいときは

「被害者は自分に対して強烈な愛情を抱いている」と確信することが

でき優越感に浸ることが出来ますし、

かといって機嫌の悪いときは

「こいつは誰とでも関係が持てる、性にだらしのない人間だ」

と思い込むことができます。

 

そしてどんどん非難は強くなっていくでしょう。

異性と一言二言話しただけでも、

最初は「そんな人だったんだ」という間接的なものから、

どんどん直接的な人格否定・非難に変わっていきます。

「あいつと寝たの?」

「まるで相手を誘っているふうだったよ。

きっと二股かけているんでしょう」

「そんな風だから信用できないんだよ」

 

つまり、材料は相手をもっと非難するために

必要なだけであって、別にそんな材料があろうとなかろうと

嫉妬したい人間は嫉妬するということです。

つまり「束縛する(理由を作り出す)ために束縛する」

のと同じことです。

 

何か本当に特別な理由があり(相手が異性に非常に人気がある、

どうやっても失いたくない相手、など)、

あるいは自分に自信がなく、周りに奪われるかもしれない、

誰かほかの魅力的な人物に目が向くかもしれない、と

嫉妬を覚えることはあるのは当然のことです。

 

ところが自己愛性人格障害者ではない一般の例においても、

「束縛するために束縛する」

というような行為をしがちな人がいます。

たとえば、「相手の携帯を何度も見たがる」。

携帯を見る側というのは、「相手が絶対に浮気をしていると思うから」

「携帯さえ見れば安心するから。不安材料がない、浮気もしていないなら

携帯を見せて」。

という“自分なりの”理由があります。

 

そういう行為を一回で決着をつけるために中身を見て

サヨウナラ、ということであればまだ整合性はあるといえるのですが、

これを何度も何度も繰り返し、浮気している証拠がなくても

まだまだ見ることをやめられない、

中身を見ると浮気している証拠があるのに別れられず、また同じように

相手の携帯の中身を見たくてたまらない、

ということを何度も繰り返すようであれば、

浮気している方の善悪はまた別として、

そういう「監視したがる」状況に陥っている方も

大きな問題を抱えているといえます。

 

つまり、浮気が怖い、奪われたくないという姿勢をとりながら、

「携帯を見る」というのはどこかで

浮気をしているという事実を見ることを

待っているかのような行為です。

 

自己愛性人格障害者の場合は、

その瞬間をまさに待っています。

彼らは嫉妬深い印象を与え、浮気をされるのが不安である

というような姿勢を見せ、

実際にそういう状況があると激昂するでしょうが、

「激昂したい」、つまりとにかく制裁を加えたいという

想いが強いので相手の浮気現場を押さえるというような状況になると

強烈な怒りを見せている様子でありながら無意識下では嬉々としています。

 

なぜなら、これで相手を身体的・経済的・社会的制裁を与えても

誰も文句はいえない、むしろ自分が浮気された可哀そうな

人間だからだ、という大義が出来ます。

 

 

束縛とストーカーの関連性

束縛の例というのは、ストーカー事案に上げられるような

ものがいくつかあります。

たとえば「メールやLINEを大量に送り付ける」「着信を大量に残す」だと

分かりやすいのですが、

恋愛関係にあると、仕方ないのかなと折れる人がいるのも

事実です。

ただ、こういう人は相手の都合や気持ちをまず考えられない

(考えている余裕がなく、切羽詰まったような、

連絡がとれないと不安で不安でどうしようもないかのような

切迫性がかなり目立つ)

ので、例えば相手が用事であろうと、むしろ重要な用事と知っているからこそ

ひたすらにメールを送り付けたりします。

相手の実際、その場面で何をしているかを知らないと気が済まないからです。

 

そして、この「相手の都合や気持ちを考える前に、

自分の“相手のすべてを知らなくては気が済まない”という切迫した

欲求を満たすほうが重要」という点が

ストーカー心理そのものであるため、

交際関係であると「まあ、仕方ないか」と相手が折れていた部分が、

これが交際関係を断っても、婚姻関係を断っても、

束縛が目立つ人ほどこの束縛したい心理が継続し、

被害者が許容していた部分がついに許容できなくなり

「ストーカー行為」の問題として浮上してくるのです。

 

ストーカーの心理構造を持つ人というのは

そもそもが束縛したい欲求が強く、交際期間・婚姻期間から

それが抑えられない場合が非常に多いので、

本人は何も変わっていないのになぜストーカー扱いされないと

いけないんだと憤慨するのですが、

被害者にとってはそもそも交際・婚姻期間からの束縛に

我慢してきたうえに関係を断ってもまだ束縛する権利が

あるかのように振舞う相手に対して辟易とし、

いつまでも状況が飲めない相手が交際相手・婚姻相手から

恐怖の対象にまで変わっていきます。

 

一度束縛してもいい関係(恋愛関係)になったはずなのに、

なぜ一方的に相手に別れを告げられて

束縛さえも許されなくなったのか?

それは、相手の身勝手ではないのか?というのが

束縛する方の本音といえるでしょう。

 

 

束縛と監視

百聞は一見に如かずというように、聞くよりも実際に

見るほうがはっきりと事実が捉えやすいものです。

「監視する」というのは、束縛する側にとっては

メールをしたり電話で様子を聞くよりも

ずっと直接的な方法といえるでしょう。

 

虐待を繰り返す人が相手を監視しようとしたり

何度も電話やメールで様子を聞いたりするのも、

とにかく相手の動向を逐一確認したい(確認しなければ

気が済まない)からです。

 

 

「かわいそうな自分」になれる

幸せを諦めている人、や自分の不幸せを何かのせいにしたい人

(つまり自分のせいではないと主張したい人)というのは

自分が不幸である材料を相手の中に見つけようと

必死になります。

 

監視と束縛の一例ですが、

ある時、男性が専門学校のクラスの飲み会に参加していました。

彼は交際している女性がいましたが、

嫉妬深い彼女が少しでも安心するように、

自分の予定はすべて女性に報告していました。

何時から何時まで、どこで飲み会があるのか。

参加メンバーは誰と誰と誰か。

何時ごろ帰ってくるのか。

 

もしかしたら、いつものようにまた電話がくるかもしれないから、

いつでも出れるようにしておかないと。

と考えながらふと顔を見上げると、

自分たちの席と向かい側にある席には、

自宅にいるはずの自分の彼女がこちらを見ながら

無表情で座っていました。

 

・・・と、ここまでくると、

「嫉妬深い彼女」のほうは、やはり彼の

「嘘」や「浮気」や「飲み会での失態」を心配しているというよりは

監視せざるを得ない、そういう切迫性を抑えきれない状況に

陥っているだけになります。

そして、「監視している」ということを、隠しもせずに

わざわざ見せつけるというのは、支配欲がそうさせるのですが

これで男性側の「プライベート」や彼氏と彼女の人間としての境界、

というのは完全になくなってしまうわけです。

 

ところで、束縛をしたがる人というのは

束縛したい理由をとにかく探したがるので、

「過去に浮気されたことがある」というのはいい名目になります。

浮気が怖くて怖くてたまらないのに、

可哀そうな自分を演じたい・・・つまり自分は可哀そうなのだから、

相手を束縛しても仕方がないよね、と言いたい人にとっては、

「浮気をされた」というのは自分の束縛を正当化する

いい武器になるのです。

 

そういう人は、「浮気がトラウマになって束縛がやめられない」と

よく主張しますが、

過去に浮気された人がみな束縛するようになるわけでもありません。

正しくは、「束縛がやめられないのを浮気というトラウマのせいにする」

というほうがいいでしょう。

 

 

愛と束縛

当然ながら、愛の強さと束縛の強さが比例するわけではありません。

「愛しすぎて気が狂いそうだ」というのも、

本当に気が狂って相手を束縛したり監視したりということになるなら

それは愛を理由にしているにすぎません。

ところがモラハラもDVもそうですが、

「お前のため」「愛だから」といい愛を釣り餌にしてしまうのが

特徴です。

愛がほしい人というのは、傷つきながらでも

その愛を獲得するのに必死なのです。

ですから、「愛しすぎて気が狂いそうだ」という言葉もすんなり

信用しますし、

「好きすぎて束縛してしまう」という言葉もそのまま受け取って

しまいます。

そして行き過ぎた束縛も、「ああ、愛情が強すぎるから

こんな風になってしまうだけだよね」と妙に受け入れて

しまいがちです。

 

束縛がうれしいひと

世の中には束縛が嫌いで窮屈であるという人が

大半ですが、

中には束縛がうれしい人がいます。

被害者になる要素の一つに、この「束縛がうれしい」

というものが含まれます。上記のように

「愛情が強すぎるから束縛が強くなっているだけか、

きっと不安なんだな」と束縛する人達に寛容なのもこの部類の

人達です。

 

束縛がうれしいと感じる人は、やはり

支配されていて支配自体が愛だと思わざるを得ない時期があった、

そういう幼少期を過ごした、

束縛は愛が強い証拠であると刷り込まれた、など

様々な要因があるのですが、

こういう人達は束縛をされると強い安心感を抱きます。

もちろん束縛があまりに強すぎると窮屈で

どうしようもないのですが、それでも束縛をすることで

愛情を感じることができるのです。

 

束縛自体は愛情でもなんでもないのですが、

束縛をするほうは愛情だからだ、嫉妬から来るんだというほうが

都合がいいですから愛情だただの嫉妬だと理由をつけたがりますが、

そういう親からの支配が長かった場合、

彼氏や彼女・夫や妻から束縛をされるほうも

それを愛だと思い込んでおいたほうが

やはり都合がよく、親からの愛情の再現のようで心地がよいからです。