人は依存しないと生きてはいけないのか

依存とはなんなのか

自己愛性人格障害者を見るときに、

「依存」というキーワードは必ず出てきます。

しかしこの依存というワードは、必ずしも

自己愛性人格障害者だけに当てはまるものではありません。

 

依存というのは、「他人やものに何らかの効果を期待すること」であり、

「それがなくては生きていけない」状態のことです。

私は生きてはいけないというよりは

生きてはいけないと(思い込んでいる)といったほうが

正しいような気がするのですが、ここではわかりやすく、

「それがなくては生きてはいけない」と表現することにします。

 

例えば子供というのは養育者、主に母親に依存します。

事あるごとに「ママ、ママ」と言い続け

どういう状況であろうとも抱っこ、おなかすいたと母親の都合を考えずに

泣きわめく姿は決して珍しいものではなく、

むしろそれが正常な子供の姿でしょう。

おなかすいたというのは食欲は生理的なもので生きる上で

欠かせないものですから、泣きわめくのも当然です。

ところが、「抱っこ」といっていつまでも抱きあげられるのを

せがむ子供も当然としています。

これは、安心感を得たいからこそそういう要求が出てくるわけですが、

ここで特徴的なのは「母親が抱っこしたいと思っているか」どうかは

子供にとって関係なく、さらに

「母親が荷物をたくさん持っていてさすがに子供を

抱えられそうにない」状況というのも子供にとってはおかまいなしだと

いう点です。

 

依存というのは、自分の何かしらの希望を叶えたい

(抱っこであれば安心感を得たい、食事であれば腹を満たしたい、

生きていなくては)という欲求をとにもかくにも

「別の人間やモノ」に満たしてもらわなくてはならない状態です。

そこに、その対象がどう思うかとか迷惑だとかそもそも無理な話である

というのは、本人にとってはどうでもいいことです。

 

しかし子供というのは「そういうもの」として

割り切って大人は接しようとします。それが異常な状態だとは

誰も思いません(「どう見ても抱っこできないでしょ!」と文句くらいは

言うかもしれませんが)。

 

ということは、人は誰しも依存という状況を経験して、

そこから大人になっていくということが分かります。

養育者である親に対して、高校生になっても

「ずっと家にいただろうになんで私の部屋を片付けていないの?」と

怒り心頭になる子供もいるかもしれません。

つまり、自分の部屋を自分で整理整頓し清潔にすることができるように

なる年齢になっても、

「他人にそうしてもらわなくてはいけない」人も

いるということです。

 

親は自分の部屋を掃除するべき、と考えているのか、

それとも不愉快な気持ちを「掃除すらしてくれない親」という

存在に対して八つ当たりするための依存心なのか、

そこは本人にもわかりかねることもあるかもしれませんが、

これが高校生でなく社会人になり、30代になり40代になり

ついには50代になっても「なんで部屋の掃除してないんだよ!」

と激昂する「こども」もいるでしょう。

 

そうなるともう、おそらく部屋を掃除してくれることを

期待していて、それが裏切られたから

怒っているというわけでもないことが分かります。

なぜ自分がここまで不愉快な想いをしなくてはならないのか、

なぜこの親はそれすら気づかずにこの不愉快さを

取り除いてくれないのか、

ということに対して怒っているわけです。

 

たとえば先日、75歳の夫が「ご飯の支度をしてくれなかった」

と64歳の妻を殴り重傷を負わせました(妻はのちに死亡しています)。

さらに55歳無職の男が、金属棒で80歳の母を殴り傷害の疑いで逮捕された際、

「朝食を用意してくれなかった」と供述しています。

 

 当然ですが、この場合でも

「食事は生理的な欲求で、食事をとれないのは命の危機だ!

おなかもすいていて不愉快だ!」といったような

乳幼児が泣きわめくのとはわけが違います。

乳幼児は最初離乳食を自分で準備できるわけでもなく

おなかの満たし方も分からずおなかが空いていることを適切に

伝える手段もないために泣くしかない状況になるのですが、

50代であれば食事は自分で準備できるわけです。

準備しなくても買って食べるか、あるものを食べて

お腹を満たすことくらいはできるでしょう。

 

ところが、「準備してくれなかった」から攻撃した

(しかも殺そうとした)という時点で

食事の準備を他人に依存していることが分かります。

 

つまりこの人達は、

「他人が食事を準備してくれない」と

生きてはいけない、と考えている人達でもあり、

「他人が食事を準備しないことで、強烈な怒りを覚える」

人達でもあり、

「他人は自分の食事を準備しなくてはならない」と

考えている人達でもあるということです。

さらに突っ込んで言うならば、

「母(妻)が自分の食事を準備しなかった」ということは、

自分に対する侮辱であり、生きていてほしくないと

思っているということだ、と歪曲した被害妄想を

持っていた可能性も非常に高いでしょう。

 

 

他人には他人の視点があることが分からない人達

自己が確立していない、ということは

あらゆる弊害を生みます。

その根幹となるのは「自己」が曖昧なせいで、

「他人にも自己がある」ということが分からなくなるという点です。

これは共感性が生まれない原因でもあります。

自分に自分の視点があり人生があるように、

他人にも他人が感じている視点があり人生があるということが

理解できないのです。

 

そうなると今度は、他人からの視点、他人が受けている感情というものを

無視して自分がただ相手に対して何をしてやって、

何を返してほしいのかということを「自分だけの都合・

快不快だけ」で考えるようになります。

 

 先ほどの状況の場合、

「妻や夫の都合や気持ちを考えない」ことで、

「食事を何があっても準備するべき存在」と

見なしていることがわかります。

ところで、この場合もただただ「食事を準備されなかったから」

怒り狂ったというわけではないかもしれません。

食事を準備した場合だろうとしない場合だろうと、

結局のところ彼らの虫の居所が悪く、結果的に些細な

言葉でも攻撃化を引き出すきっかけになったかもしれません。

 

世の中の社会人がみな、配偶者や親に

食事を準備されなかったからといって

相手を殺したいくらい怒り狂うわけではないことは容易に

想像できます。

 

ですから怒り狂う理由は「食事の準備をされなかった」ことではなく、

また別に存在している可能性が大いにあり、

本気で「食事の準備をしない」相手に対して強烈な怒りが

来たから怒ったのだと思い込んでいるとしたら、

そもそもその怒りの元凶を認識していない、

そこに大きな問題があります。

 

「自分ではどうしようもないこと」を依存する

依存というのは、自分でどうにかなると思っている時点では

起きません。

自分ではどうしようもない、他人がどうにかするべきだと

思っている段階で起こるものです。

では、先ほどの食事の例ではどうでしょうか。

何度も言うように、乳幼児でもないかぎり食事というものは

自分で準備できます。

腹を満たすことは自分でできるわけです。

ということは、食事が準備されないこと自体に

怒っているわけではない、ということが分かります。

 

こういう人達が何に依存しているかというと、

「自分の不快さを取り除き(取り除くべき)」、

「快楽を与えてほしい(与えるべき)」と

いうことに対して依存しているといえます。

 

つまり、50代であっても80代であっても、

妻や母に「養育者のような存在」であることを望んでいる

というわけです。

 

自分ではどうしようもない不快な感情を

一気になかったことにするかのように取り除いてくれ、

快楽を与えるのが当然である。

ということを、「自分ではできない(やろうとすると

ストレスがかかりすぎる、手間がかかる)」からこそ

他人に望むということです。

 

つまり、自他の区別がついていないのが当たり前のはずの

乳幼児と同じように、

自他の区別がつかない段階で大人になってしまうと

「泣きわめく乳幼児をなだめる親」と同じように、

自分は自分の主観があるので他人は他人の人生があり視点があり

主観があるのだ・・・という答えを導き出すことが

出来ずに、いつまでも自分の手足のように、

自分の延長のような形でしか他人を見て、使うことしか

出来なくなります。

 

 

依存心は悪なのか

と、ここまでは異常な依存心についての話だったのですが、

「依存とはよくないものだ」と結論づけるのは早計です。

精神分析学の創始者フロイトは、人は自立・自律して生きていくのを

目指すべきだと言っています。

フロイトの理論に疑問を持ったコフートは、

人は自立なんてそもそもできるはずもなく、成熟した依存を

目指すべきだと唱えています。

 

人は、基本的に何かしらの形で他人に依存しなくては

生きてはいけない、ということがコフートの考えです。

 

以前も自己愛というものは病的であるという専門家と

人は自己愛的な面を捨てきれないものであるという専門家がいる、

という話をしました。

自己対象、という言葉があります。

自己対象というのは自分の一部であると感じられる他人のことです。

他人のことですから自分を指すわけではなく、

かといって「自分の一部のように感じられる他者」ですから

正確な他者の性質を捉えているわけでもないので

ちょっと複雑な言葉なのですが、

 

これは3種類に分けられており、

鏡自己対象・・・自分が褒めてほしいとき、認めてほしいときに

無条件に褒めてくれ、認めてくれるような人。

理想化自己対象・・・自分にとって非常に強力で、神のような

理想的な生き方を示してくれる人。

双子自己対象・・・自分と同じような弱く、脆い人なのだと

感じさせてくれるような人。

 

という風に区別されています。

これらの要素が必ず、人が生きていく上では必要だと

考えるのがコフートの理論です。

他人は他人の人生があり、他人の視点があるのですが、

人というのは他人に対してこういう存在でいてほしいという

一つの依存心を抱えて生きていて、

それは否定できないという意味です。 

 

人は自分の依存心を否定すればするほど、

より依存的になっていくと考えますから、

以前も紹介したように完全な自立を目指して生きようとするよりも、

個々にある依存心を認めつつ生きていったほうがより

健全であると個人的には思うのです。

 

無論、コフートの理論に隙はなく何もかも正しい、といったような

議論を展開するつもりはないのですが、

 

嫌いだった人間が自分と同じような病気に罹患したことを公表したときに

「あの人もあれだけ辛い思いをしたんだな、

ぼろぼろになった経験があるんだな、自分だけじゃないんだな」と

安心感にも似た感情を抱くことは、

何も悪い事ではないということです。

 

なぜこういう話をするかというと、

自己愛性人格障害者が自己愛性人格障害者となった所以にしろ、

被害者が被害者気質になった所以にしろ、

「自分の中の悪、不道徳さ、不条理さ、不完全さ」というものに対して

非常に不寛容で(自己愛性人格障害者の場合は不寛容すぎて

認められすらしないのですが)、

罰しないといけないという気持ちが強すぎて、

それゆえ自己愛性人格障害者というのはモラハラ思考に陥り、

被害者はモラハラの罠にはまっていきやすいという

悪循環にはまりやすいからです。

 

自己愛性人格障害者にはこの言葉が届かないにしても、

被害者にとって、「自分の中の依存心や自己愛的思考に対して

もう少し寛容になってもいい」ということを、

心理学的観点でもそういう理論があるということを

知っておくことは損はないと思います。

 

 

恋愛と依存

恋愛というのは、ただでさえ依存という状況が

起こりやすいといえます。

 

恋愛というのは、個人個人があまり依存的でなくても、

また自我がはっきりしている人だとしても、 

恋愛そのものが「相手と同化したいという感覚に襲われる」

という性質があります。

 

何か幼少期に報われない思いをしたとき、

あるいは養育者に対して恨みを抱いたとき、

その代わりになるのは往々にして交際相手であったり

配偶者であったりします。

 

ですから自己愛性人格障害者というのは

恋愛場面においてほぼ確実に相手に依存するのですが、

そうでなくても依存という状況に陥りやすいのが

この「恋愛」です。

ですから、そもそも依存体質の人間は溺れるように

相手に依存しますから、不快はすぐにでも完璧に

取り除いてほしいと考えますし、快楽をとにかく得ようと

メールをずっとしたいと考えたり電話を長時間したいと

考えます。

 

その依存心というものをどう昇華していくか?というのが

恋愛の課題でもあり、

依存しすぎて失敗しながら自分の依存心について考えたり、

依存されている側の都合を考えたりして、

恋愛というのは成熟した依存とは何なのかを自分自身で答えを導き出す

機会でもあるでしょう。