自己愛性人格障害は、治らない

自己愛性人格障害者は、

あらゆるストレスを回避する能力を持っています。

その回避能力の高さから、ストレスを感じ

ているのに

真正面から受け止めることができないので

多少ストレスを感じるだけで何に対してストレスを感じているのかも

よくわかっていません。

 

しかしそれは実際には人間そのものが備えている

心理的防衛機構が極限まで働いている、

そしてそれがより未熟な形での防衛になるというだけの話です。

 

ですから、見た目は特に他の者たちと変わりのない人達で、

自我の危機的状況にならなくては

その異常性というものは際立ちません。

 

しかし被害者・ターゲットというのは、

自己愛性人格障害者の「障害」が改善することを

切に願います。モラハラに耐えながら何年も願い続ける、

そんな人も多いでしょう。

というよりは、そんな人のほうが圧倒的に多いでしょう。

 

自己愛性人格障害者がおそらく障害を持っていて、

それゆえに誇大した自我への執着や被害者意識を持ち、

自分は愛されているのではなくてモラハラを受けているのだ。

と気が付いてもなお、

「モラハラでは、ないのではないか?」

「本当は障害などなくて、やはり自分に原因が

あるのではないか?」

と考え、その望みがどうやら潰えたらしいと思っても

「自己愛性人格障害者であっても、

なんとか突破口があって奇跡が起きて改善するのではないか?」

と考えるのがモラハラ思考に対をなすようなターゲットの思考です。

 

ターゲットにとって、

自己愛性人格障害が治らないという答えを出すことは

なんのメリットもありません。

そうすると、一緒にいる生活というのは苦痛でしかなく、

離れる選択肢を出すしかありません。

 

しかし、ターゲットはターゲットで、

自己愛性人格障害者との共生関係を保っていかなくては

ならない場合がほとんどでしょう。

 

モラハラのターゲットとして選ばれる者とは、

他人に尽くし、与えること、考えること、もがくことで

自分の役割というものを確保する人物像であることが

非常に多いからです。

そして、自分が常識人であること、人に迷惑をかけないこと、

倫理を守ることに関して非常に敏感です。

 

ですから、何があってもモラハラ加害者から離れるという選択肢だけは

とることができない、と思い悩んだまま数年を過ごすことなど

当然のようにあるのです。

 

 

そして何より、

自己愛性人格障害者が説く「愛」というものを信じたいと

思う限りは、被害者は絶対的に彼らから離れることはできません。

 

ですから、被害者は方法を探します。

自己愛性人格障害者を改善させる方法です。

 

最も被害者が陥りやすい状態というのは、

積極的に自己愛性人格障害者のストレス回避の手伝いを行いながら、

愛を示すという方法です。

つまり単純にいえば、「過剰に尽くす」という言い方にもなるでしょう。

自己愛性人格障害者を怒らせない。とにかく食事の時間を遅らせない。

好みでないものを作らない。彼らが怒りだすタネを可能な限り

潰そうとする。

これは自己愛性人格障害者の障害を改善させるというよりは、

彼らの自己愛憤怒を予防するための手立てともいえますが、

当然ながら、被害者は神ではありませんから

イレギュラーなことまでは防げませんし世の中にストレスというものは

数多くありますから、被害者がすべてを防ぐことなどできません。

 

それに、この方法は確実にモラハラを悪化させる方法でもあります。

被害者が10歩譲れば、なんの躊躇もなく、感謝もなく

10歩踏み込んでくるのが

自己愛性人格障害者です。

さらに10歩譲ることを当たり前のように要求してくるのが

彼らですから。

 

そして、自己愛性人格障害者をほめたたえようとする、

彼らの劣等感が原因ならば「褒める」ことで自己肯定感を高め、

障害を改善しようとする試みもまた被害者がよく使う方法です。

自己愛性人格障害者の改善というよりは夫婦関係の改善で

そのように指南しているサイトも少なくありません。

 

ところが、これも危険な手段といえます。

 

自己愛性人格障害者は、

肥大した自己に対する認識はありますが、

本来の自分に対する認識はありません。

劣等感を持つ自分というものを認識すらしていませんし、

分裂した片一方、つまり劣等感を持った未熟でみじめな自分、

それを引き受けているのは「被害者自身」や「自分ではない他人」です。

 

そもそも肥大した自己に対する賞賛があるだけで、

劣等感を持った自分というものは認識されませんから

自己肥大に拍車をかけるしかありません、それか

「自分に対して皮肉を言っている」と曲解されるしかないでしょう。

 

つまりほめたたえるということが攻撃していると

捉えかねないということです。

なぜなら被害者というのは粗悪な人間なのですから、

そんな人間が自分に対して偉そうに上から目線で

賞賛しようとしている、と思われてもおかしくはないでしょう。

 

 

次に、褒めても意味がない、労をねぎらっても意味がないと

捉えた被害者は、自分の辛さが理解できていないのではないか、

人の苦しみを感じ取る能力が低いのではないかと考え

自分が辛い思いをしているとか、

モラハラをとにかく「その発言だけはやめて」「そういう風に

怒るのだけはやめて」という言い方をしがちです。

 

自己愛性人格障害者が事の重大性を分かっていないのではないかと

考え、モラハラに関する知識を自己愛性人格障害者につけてもらおう、

とすることもあります。

 

とにかく、彼らがやっていることはひどいだという自覚、

そして被害者の傷を自己愛性人格障害者に自覚してもらおうという

試みです。

 

ところがそれも失敗に終わります。

自己愛性人格障害者は、事が重大であればあるほど、

そこから心理的に・自動的に逃げる能力があります。

 

些細なストレスでさえ、自己愛性人格障害者は

耐えることができないのです。

ですから、自分がモラハラをしているとか、相手にひどい傷を

負わせているとか、自分の言っていることは

正義ではなく自己正当化でありただの欺瞞だとか、

そういうことを突き付けられれば突き付けられるほど、

そこから逃げようとします。

 

それは自己愛性人格障害者が意図的にやっていることではなく、

心理的に勝手にやってしまうように「出来て」いるのです。

 

ですから、被害者がいくら傷を訴えたとしても

その傷を認識できません。

人に傷を与えるような自分ということも少しも耐えられませんし

(口ではどうとでも言えますが)、

共感能力もないので人の傷やその傷ゆえに起こる悲しみも

よく理解できません。

被害者がそれを訴えることは、「自分を加害者に仕立て上げようと

している」という悪意としてしか認識されないでしょう。

 

自分が自己愛性人格障害を持っているという認識など、

もっての他です。

被害者こそがそうやって自分を悪者にして、

責任のがれ・罪を逃れようとしていると

彼らは思うことしかできません。

 

特に精神的に問題のない人でさえ、

自分の心を守ろうとする心理防衛は備わっていますし

ストレスを回避しようとする機能があります。

自己愛性人格障害者は、それ以上にストレスを感じやすい

状態にあるうえに、ストレスに耐えられないからこそ

モラハラ思考を以て人生を乗り越えていくしかないのです。

それは、他人へ責任転嫁する、他人に依存する、

悪い、欠点を持つ自分を他人に引き受けてもらう、

共感性や罪悪感の欠如という形で表れますが、

それだけ彼らが弱い存在であるということを示しています。

 

それらの欠点を自覚できないために

自己愛性人格障害というものを以て自分を守っているのですから、

それを「栄養分」とか「言って自覚させる」とか

「愛」とかいうものでは

自己愛性人格障害は決して治りません。