モラハラは、ただの支配

自己愛性人格障害者にとって、

モラハラというのは

ただの防衛機制です。

 

自己愛性人格障害者はただ、危険を回避するために

被害者を盾にしようとし、

重責を押し付けるために

被害者にその責任を負わせます。

 

そしてその副産物として生まれるのが

被害者への怒りや憎しみです。

 

それを受けている側というのは

真剣にそれを受け止めようとしますが、

 

自己愛性人格障害者にとってはただ

自動的に責任を回避しているに過ぎません。

 

もちろん自己愛性人格障害者にとっても

心が崩壊するかどうかの命がけの作業なのですが。

 

その作業に、まんまとはまるのが

被害者です。

 

自己愛性人格障害者の責任転嫁に

「確かにそうだ、一理ある」と頷き、

必要以上に罪悪感を持ち、

自己愛性人格障害者の人生を背負おうとします。

 

被害者は、自己愛性人格障害者のモラハラに

踊らされているといったほうが正しいかもしれません。

 

モラハラというのは実際その責任転嫁や

自己愛性人格障害者の心の防衛の結果であって、

それを真に受けるのが

被害者と呼ばれる人たちなのですが、

 

被害者というのはそれを真に受けることによって、

自分がまるで大きな責任を果たしているかのような

気にさえなってきます。

それこそ、被害者が自己愛性人格障害者の

支配を受けやすい原因の一つです。

つまり被害者というのは、

自己愛性人格障害者が本来持たなければならない荷物を

進んで持とうとし、

なおかつまだ

「お前が持っている荷物なんかちっぽけだ」

「荷物を持つのが遅い」

「こっちの荷物はもっと多いのに」

「こっちの荷物をもっと減らせ」

 

という自己愛性人格障害者のわがままを

本気で「どうしよう」と真剣に

考える人たちです。

 

最初は愛からそうしていたはずなのに、

そうやって考えないと、

今度は自己愛性人格障害者から攻撃を

受けてしまう。

 

そうやっていつの間にか愛から

支配に変わっていったとしても、

そのモラハラ自体がやはり

「これを乗り越えれば、本当の愛に変わる」

と信じるしかない支配の中に

囚われてしまっているのも、

被害者の特徴といえるでしょう。

 

そのモラハラは愛ではなく、

ただの支配だと気づくまでに時間はかかりますし、

そう割り切るまでの精神力というのも

相当なものがありますが。