愛されたい症候群

愛されたい症候群の実態

被害者気質の特徴として、

「愛されたい症候群」というものがあります。

当然ですがこんな名前の障害があるわけではありません。

ですが、わかりやすく言うならこの

愛されたい症候群という言葉が最も適当になるかと思います。

 

「愛に飢えた人」、

「愛されないのではと常に不安になる人」、

「愛されることに拘る人」を指します。

 

こういう人は、はっきりと愛を示そうとする

自己愛性人格障害者に最もハマりやすいともいえますし、

 

そういうパターンでなくても

愛というものを貰うために相手に尽くしたり、

それを自分の愛だと信じ込んだりして

どんどん尽くすことをやめられなくなってしまい、

結果自分の気持ちを訴えられなくなり

苦しい思いをしたりします。

 

愛を貰えたら幸せになるはずなのに、

その愛を貰うために違う自分を演じようとしたり

もっと頑張れる、もっと努力できる、と考えて自分を追い込んだり

その自分を犠牲にする姿こそが自分の愛を示す行動なのだと

思い込んだりして結果幸せどころか

苦しくなってしまうのです。

 

「愛したいか、愛されたいか」

愛したいか愛されたいか?との問いでは

大体の場合愛されたいという答えが多い結果となります。

これは、与える幸せよりも与えられる幸せのほうが大きいと

感じている人が多いという結果でもありますし、

しかし愛されたいという人間が多い以上、必ずしも

「愛したい人-愛されたい人」というマッチングがなされる

訳ではないという事でもあります。

 

また、愛するということはその特性上、

努力が必要です。愛には技術も必要というのは事実です。

当然ながら「愛しているよ」と口にするのは簡単ですが

実際に愛というものを示すには行動という努力や工夫が

必要になってきます。

愛しているよ、という言葉があるのに実際はなんの行動にも

示さないようだと、当然ながら相手は

「自分は本当に愛されているんだろうか?」と

疑問に思うものだからです。

 

また、愛しているよと言いながらひたすら

引っ付こうとしたり相手の都合を考えないまま

自分と一緒にいる時間を長くするよう求めたり、

自分が愛されるためだけに相手に尽くそうとする行為を

すると、これも相手が「自己中心的である」と

判断する要因の一つとなり、

相手の心は離れてしまいます。

尽くすという行為、一緒にいたいという気持ちが

相手を想うからではなく自分が快感を得たいから、

という理由にすぎないからだとすぐ見抜かれるからです。

 

また、相手がしてほしいことを

なんでもしてあげようとすることも愛を乞うためだけに

自分というものを軽々しく捨てていると判断されます。

そしてそれはまるで親のように感じられるものですから、

一人の男性、女性として尊敬されるよりも

自分の思い通りに自分からなろうとしてくる、

自分のない人として判断されてしまいがちです。

 

ただ自己愛性人格障害者のような人間だとそういう

「自分から思い通りになろうとしてくる人」というのは

うってつけのターゲットになりますから、

モラハラしながらも自分のもとから離そうとはしないでしょう。

そして愛されたい症候群の人も愛を示してくれる相手に対して

安心感を抱きます。モラハラをされようとも、

その相手が「ひどいことを言ってごめん。愛しているからだよ」

というとそれを信じたほうが自分の「愛されたい欲求」を

満たすことができるので、すぐ信じようとします。

モラハラを受けているとか、自分が我慢しているという

事実をまるで見ようとしないのです。

 

愛されたい症候群の人間というのは、

最も被害者体質に近いといえます。

 

ストレスや劣等感を抱えている人は目の前の快感に

とても弱いといえます。

愛、という言葉があればそれに対して幻想を抱きがちですし、

愛というものを妄信しがちです。

愛されるという可能性があるなら、それに飛びつかずにはいられません。

告白されれば無下に断れず、

付きあってしまうという人も当てはまるでしょう。

いつも相手から告白されるのに、自分が必ず相手のことを好きになってしまい

尽くしすぎてしまう、

そして必ずフラれる結果になってしまう

というのも自分が愛されるという可能性に飛びつき、

その愛を獲得し続けるためだけに自分を犠牲にして尽くし、

その姿が相手にはみっともなくみえて(自分がないように見えて)

フラれる、という形です。

 

これも相手が愛というものを利用して

搾取してやろうという人間だと別れを告げる前にさんざん相手の

気持ちを利用してから音信不通になることも多いですから、

被害もなく別れるというのはある意味マシなパターンでもあります。

 

愛されたい人というのは尽くすことはできても

本当の意味で愛する技術はないことが多いです。

それだけ、自分がない、ただ劣等感を持っているだけの

事が大半だからです。

ただ尽くすことを愛するという意味だと思っている人も

非常に多いです。

強く人に対する愛を感じていながら、

「本当にこの人のことを愛しているんだろうか?」

「告白されなければ、相手が自分に対して

興味もないような人なら、この人に興味を持って

いただろうか?好きになっていただろうか?」と

自問自答を繰り返す人もとても多くいます。

 

愛を獲得することが最優先ですから、

自分が愛されることよりも先に愛を相手に与えたり

することは苦手ですし、

強烈に相手のことを好きなはずなのに

愛する、ということがどこかボヤけていて

実際どういう感情なのかがわかりません。

 

必要とされたい、という感情

愛されたいという感情は、必要とされたい

という感情ととても似ています。

 

ということは、愛されたい症候群の人は、

必要とされることに対して強い執着があるともいえます。

なぜ強い執着があるのか?というところに関してですが、

必要とされていないのかもという劣等感や、

ここにいてもいいのかという不安が植え付けられているから、

というところにヒントがあります。

 

愛されたい症候群の人は、

「このままの自分ではだめだ」と思っていることが

多いです。

それは、幼少期にそう親から植え付けられた場合もありますし、

周りからそういう風に刷り込まれた場合もあります。

 

自分の言動を否定されることが多かった、

親が自分の話を聞いているようで聞いていなかった、

自分がだめな子だから親が不機嫌なのだ、と思う機会があった、

とかそういう理由も挙げられます。

 

そして、このままではだめだ、と思うことで

努力はしているし自分が非常識なこともわかっている、

という予防線を張る意味合いもあります。

さらにこのままではだめだという気持ちを高めることで、

「しかし、ここから違う地点に

自分がいけば、きっと愛されて幸せになるはずだ」

という思い込みをしたいということでもあります。

 

今のままの自分だから愛されないのだ、という

思い込みです。

自分が悪いのだ、という考えかたですね。

自分には価値がないと思いこむことでもあります。

それなのに、「自分は愛されるべきだし

これだけ尽くしているのに」という気持ちに駆られる人も

います。

 

このブログを見てくださっている人にはカラクリがなんとなく

分かるかと思いますが、

劣等感を打ち消すために人間が使う精神的システムというのが

「優越感を得ること」です。

 

劣等感が強ければ強いほど、優越感も強くなるという

システムです。これら二つは表裏一体で、どちらも

「コンプレックス」という言葉で表されます。

(なので劣等感だけがコンプレックスと呼ぶわけではないのですが、

一般的には劣等感だけをコンプレックスと呼びますね)

 

ですから、必要とされていない、それは自分が無価値だからだ・・・

と感じている人ほど、

「自分はこれだけ辛い思いをしているのに(自分だけが辛い思いをしている)」

「自分はこれだけ尽くしているのに(自分だけがこんなに尽くす

技術を持っていて一途である)」

「自分は誰よりもこの人の事を愛しているのに(自分の愛は

他の誰にも負けない)」

という強烈な優越感が同時にやってきます。

 

どちらも共存しえない感情にも感じますが、

実際はどちらもその人個人に存在しているのです。

ですから、

「自分は無価値である」「だから、彼に誕生日も忘れられるような

人間なんだろう」と言いながらも、

「恋人の誕生日も忘れるなんて信じられない」

「普通、お祝いしたいと思うのが当然じゃない?私だったら

絶対にプレゼントもあげるのに」

という恨み節が存在したりもするわけです。

 

そこには、

自分は徹底的に無価値であり、愛されない人間だという

強烈な劣等感と、

それを打ち消すための「私は祝われるべき存在である。

自分は彼とは違って、ちゃんと相手を

愛しているし祝いのプレゼントくらいはする人間だ」

という強烈な優越感が生まれるわけです。

 

愛しているのだから愛されるべき

劣等感が強く、愛されたい願望が強い人は

愛する技術はほとんどないと述べたのですが、

しかし上記のように

「自分はこんなに愛しているのに」と

「愛しているのだからそれと同じくらい返すべき」というような

一種の脅迫のような形をとることがあります。

 

自己愛性人格障害者レベルの自他の境界の曖昧さになると

愛を相手をコントロール(思い通りに)するための

一つの手段としてしか使わないために完全に脅迫のような

形になってしまうのですが、

 

完全な被害者体質の人、愛されたい症候群の人も

ここまでとはいかずとも、

愛されたいゆえに尽くそうとするために、

自分が尽くしてきたことを盾にして

「自分がこれだけしているのに、なぜ返そうとしないのか?」

と悶々としがちです。

これは、「あなたはこれだけ尽くされているんだから、

相手にこたえようとするのが人としての筋道なんじゃないのか?」

と考えることと同じです。

 

つまり、愛されたい症候群の人は

愛したいから愛しているわけではなく、

相手がその相手ゆえに愛しているわけでもなく、

「自分に愛を与えてくれる可能性のある人だから」こそ

愛している、ということにも置き換えられます。

 

しかし愛されたい願望が強いということは

それだけ自分で自分を愛す能力が低い、

劣等感が強い人間であるということでもあるので、

愛されない自分という認識と、

「いや、これだけ自分は人に一途なんだ!」

「一途に相手を想い続ける力は人一倍強い!」

という妙な劣等感を同時に持ち合わせることになるのです。

 

ところが相手のことを考えていない「愛」ですから、

相手にとっては重たい、窮屈であると感じてしまうものです。

しかし「いつも付き合う人に重たいと言われる」

「尽くしすぎてフラれる」ということを

まるで勲章でもあるかのように話す人がいます。

これは、自分はそれだけ一途なのですよ、ということを

示す行為でもあります。

重たいと言われるほど人を愛する

純粋な人間なのだ、ということを周りに暗に伝えたいという

意味でもありますが、

実際に重たいと人に言われるほど尽くすというのは

相手の気持ちを何も考えていない、あるいは

尽くすという行為を以て自分の存在意義を確かめたいという

だけに過ぎないことも往々にしてあります。

 

 

 常に不安に駆られる

愛されたい症候群の人は、常に不安です。

不安が二重、三重にもなって襲ってきます。

その不安というのは、ものすごくいろんな要素が

絡み合って作られる不安だからです。

 

自分は必要とされていないのではないか?

そしてこれからもずっとそうなのではないか?

自分はこのままずっと空虚な人生を歩むのではないか?

誰かが手を差し伸べてくれるはず。

でも誰もいなかったらどうすればいいのか?

自分は一生、人を愛するということができないのではないか?

愛されるということは難しいのではないか?

という不安です。

 

そして現状を変えるために、

「このままではだめだ」と考えるようになります。

というよりもこのような気質の人は常に、

「このままではだめだ」と考え続けていて、

今日もダメだった、明日こそはと考え、

いつも自分を変えなければと思いつつ

変えられない自分に辟易しています。

 

そもそもどう変えれば愛されるかどうかも

分からない上に、

そんな努力をしても結局この劣等感は埋められないのでは?

と感じているのです。

 

満たされない自分をどうやって満たすのかという

方法がわかりません。

ですから、手っ取り早い方法として脳内ホルモンが

簡単に放出でき、快感を得られる

「恋愛」とか「結婚」というものに目を向けるのです。

恋愛や結婚というものは、勝手に相手が自分のことを愛してくれる、

必要としてくれる便利なシステムです。

しかし、最初はそうですが当然ながら

恋愛という感情も一定ではないのですから

一度愛を誓ってくれた人がいつまでも愛してくれるとは

限りません。

もちろん永遠の愛を誓いあうのは理想ですが、

その理想通りにすべて物事がうまくいくわけではないのです。

 

愛されたい症候群の人達も、それをなんとなく理解していながらも

そういう人生というのは考えれば考えるほど

虚しいだけなので、

夫婦というものは、恋人というものは愛し愛されるべきであるという

幻想をずっと抱き続けたい、

愛されつづけたいと願います。

 

その想いにつけこまれても、

愛されることを欲し続ける人達というのは

愛を獲得するためなら、そもそも劣等感が強いので

簡単に自分を犠牲にすることができます。

 

そして劣等感が低いので、愛されていても

自分が愛されているという実感がわかずに、

もっともっとと愛されている実感を感じようとします。

また相手の愛を実感することができず、

そして相手の愛を獲得し続けるために

尽くそうとするので、

尽くしている、相手のために思い通りになっている

自分が愛されているだけだと思い込み、

相手に尽くすことをやめられません。

 

そして、そういう一途を演じている自分というものを

無意識的に自覚しているので、

愛されているといっても「本当の自分を愛しているわけではない」

とますます思い込んでしまうのです。

 

つまり、愛されたい症候群の泥沼にはまればはまるほど、

愛されたい思いが強すぎる故に愛されない、という

ジレンマにも嵌ってしまうのです。