自分が受けていることが、モラハラかどうかが分からない

被害者が支配から解かれる段階というのは

これはモラハラでは?と気づく

ところから始まります。

 

そして、これは

モラハラかそうではないか?と

悩むという段階を経て、

目が覚めていくということになるのですが、

いつまでも「これはモラハラか?

あるいはそうではないのか?」

と悩む人もたくさんいます。

 

モラハラのチェック項目というものも

たくさんあり、

それらのモラハラチェックのサイトと

にらめっこしながら

やっぱりモラハラだ、いやそうじゃないかも、

やっぱり離れるべきか、いや早計かも、

と自問自答を繰り返している人も

きっといることでしょう。

 

というより、被害者気質を持つ人は

特に悩みすぎるくらい悩み続ける

はずです。

 

被害者の中には、「自分の過ち」を

極端に恐れるひともいます。

 

すなわち、自分の遭っている被害が

モラハラという致命的な案件でもない限り、

別れという選択肢を考えてはならない、

自分のこの考えが正解だと思えない、

自分が傷ついていること自体が

世間知らずで身勝手な証拠なのでは?

そういう感覚がどこかにあるので、

 

「相手のやっていることはモラハラで、

自分はモラハラ被害者である。

だから自分が傷つくことは間違っていないし、

相手の言っていることはモラルでも

なんでもなく、理不尽なだけ。

自分が別れを考えるのも仕方のないこと」

という答えが出てこない限り、

自分は自分が未熟ゆえに傷ついている

だけなのだ、という考えが沸々と湧いてくる

のです。

 

「モラハラ」という答えがないと、

まるで自分は傷ついてはならない、

別れてはならない、

と自分を戒めるかのように。

 

しかしモラハラでは?いやそうでないのでは?と拘れば拘るほど、

その人は、被害者気質が高いといえます。

モラハラでなければ自分の傷さえ

間違っていると自責してしまう、

 

その性質自体が自己愛性人格障害者には

うってつけのターゲットになるのです。

 

被害者自身が自分の傷に疎い

(疎くなくてはならない)からです。

 

被害者も心の弱さを持ち合わせているため、

傷に疎く、傷つけられてもそれが悪意だと

考えると余計に傷つくので悪意と考える

ことを避け、

自分の責任だと考えやすいのです。

 

この時点で、

「自分は傷ついている」という事実を

ほったらかしにしています。

 

逆にほったらかしにできる人間でないと、

自己愛性人格障害者と一緒に

暮らすことなど出来ないのです。

 

しかしほったらかしにすればするほど、

後々抑圧された感情が

あふれでたとき、自分がどれだけ

深い傷と苦悩を背負っていたかやっと

気づきます。

 

被害者は、無責任だと思われたくない、

他人を傷つけることで、迷惑をかけることで

自分の評価を下げたくない、と

思っている人も多いです。

それを「自分が耐えるべき」

「喜んでくれた両親のために」

「こどものために」

という言葉に置き換えやすいとも

いえます。

 

被害者は、間違いなく離婚を

考えるほど傷ついていて、

それでモラハラという言葉や

モラハラチェックに辿り着くのですが、

 

モラハラという答えを導きだしてさえ

それでも踏ん切りがつかない人が

大半なのですから、

被害者が「モラハラを公にしたくない、

他人を巻き込みたくない、

自分の評価を落としたくない」

という性質というものはそれだけ

強固なものです。

 

モラハラでなければ離婚は絶対できない、

と思い込んでいる人もいます。

自己愛性人格障害者が「絶対に離婚はしない」

と言っているためです。

 

「いや、モラハラじゃなくても

離婚はできますよ。あなたはあなたの傷に

もっと敏感になるべきですよ」

というのが事実なのですが、

 

自己愛性人格障害者が弱すぎて

モラハラ(自分の心を守ること)をしてしまう

のと同じで、

傷から心を守るために鈍感になっているのが

被害者の性質なのですから、

それは急には変えられません。

 

そのために、証拠が必要なわけです。

 

このサイトでは常々、

「証拠をとにかく積み上げておく」

ということを推奨しています。

 

自己愛性人格障害者は

悪意を持って傷つけているのだという

事実、

被害者は悪意を持たれていて理不尽に

攻撃され支配されているのだという

事実を

認識することが難しい人たちです。

 

被害者は、なんとなくは気づいているのですが、

「いや、でも相手なりの愛であり、

愛されているのでは…」

という認識からなかなか離れられません。

 

その認識から離れたら、一緒には

いられない、本格的に離別しないと

限界がくるから、ともいえます。

 

証拠を積み上げるというのは

事実を積み上げることです。

 

それらの事実を積み上げるということは、

被害者にとって「いつ、限界がきてもよい」

 

という一種の安心材料になります。

 

モラハラかどうか、を

被害者が悩むよりも、

第三者に判断してもらうのが一番でもあります。

いつかくるそのときのために、

「事実」をたくさん積み上げておく

必要があります。

 

モラハラかモラハラではないか悩む間にも、

「モラハラかもしれない」その時間を

しっかりと記録に残しておきましょう。