脅迫に屈しないために

このブログでは幾度となくお伝えしてきているのですが、

自己愛性人格障害者が脅迫という手段を使うのは、

もはやセオリーです。

 

もちろん、恫喝と呼べるような

脅迫をすることもありますが、

そこに至るまでは

「パートナーとして、それでいいの?」

「いち社会人として、何も考えていないの?」

「それって、人としてどうなの?

良心の呵責も起きないの?」

 

というような、

モラルを利用した脅迫が多いでしょう。

 

とりあえず、

自己愛性人格障害者の近くにいる場合は

この脅迫に屈するしか

その場を生き延びる手段が他にないことも多いです。

 

ですから、

自己愛性人格障害者の怒りをなるべく

買わないように先回りしてしまう

被害者がどんどん増えてくるのは当然ともいえます。

 

そういう手段をとらないと、

後々もっと余計な面倒を背負う羽目になるからです。

自己愛性人格障害者は破壊衝動を抱えていることも

ありますから、

被害者がどういう対応をしようと

怒りに任せて暴れだすこともあります。

 

問題は、自己愛性人格障害者から

離れたときです。

自己愛性人格障害者から離れても、

そこで脅迫に屈したり、

それこそ「人としてのモラル」を追求され

被害者自身が屈服してしまい元に戻る・・・

 

ということを何度も繰り返しがちです。

 

一つ、脅迫に一度屈すると、

自己愛性人格障害者はとにかく同じ手段を

今後何度でも使ってきます。

 

これは有効だ!と分かると、

本当に執拗に何度でも

そのような精神攻撃を繰り広げてきます。

そこに、良心の呵責など一切ありません。

 

その脅迫に、

これも過剰に反応して

「絶対に戻らない!」とか

「一生苦しめ!」とか言ってしまうと、

自己愛性人格障害者は逆上して何をしでかすか

分かりません。

 

その反応自体が、

自己愛性人格障害者にとってはモラルを説く自分に

対しての「反抗」とみなす

一つの要因であり、

 

「自己愛性人格障害者が被害者に攻撃を仕掛けても

いい理由」になります。

 

非常に理不尽だと感じるかもしれませんが

実際自己愛性人格障害者の中では

そういう思考の変遷があるのです。

 

そして、これも必要以上に

おびえたり、自己愛性人格障害者の

話をうんうんと親身になって聞いていたりすると

これも結局脅迫でなんとかなる、と

自己愛性人格障害者が判断するきっかけになります。

 

被害者にとって脅迫というのは

恐ろしいものです。

いったん逃げてきたはずの場所が

一気に自分に近づいてくるような気がして、

さらにちゃんと戻ってくるなら何もしない、

と言われる。

 

この段階で、

危険を察知し戻る人もたくさんいるのです。

 

しかし脅迫というのは、

過剰反応しなければ燃料投下されませんから、

自己愛性人格障害者はとにかく何ヶ月も執着しますが

実際にアクションする手段がなくなれば

どんどん頻度が少なくなったり

その燃料も途切れてしまいます。

 

被害者が、ターゲットとしての役割を

十分に果たさなくなったと理解したら、

ころっとターゲットを変えることもあるでしょう。

 

そのためには、

とりあえず自己愛性人格障害者に対する

恨み、怒り、悲しみ、畏怖、

はいったん置いておいて、

ロボットにでもなったかのように

起きている現象だけ話す、

結論だけ話す、

という対応をとったほうがいいでしょう。

 

脅迫自体が怖いなら、

この音声は録音させてもらいますから、

いつものように怒鳴るだけ怒鳴ってください・・・

と話すだけでも自己愛性人格障害者の対応は

変わってきます。